

「朗読」を、読書領域に:表現の座標を離れるということ
たしかに長い間、朗読は「声の技術」として捉えられ、「表現の巧拙」が評価されてきました。 そのような土壌があるからでしょう。読書領域における朗読(サロンドマリコの「新しい朗読」)について語っても、多くの人が「従来の朗読(表現としての朗読)」を基準点に置き、そこからの 「差分」 で解釈しようとします。 それは無理もないことです。 しかし、その姿勢では、「表現」という枠組みから抜け出すことはできません。そのままでは、たいへん残念なことに、読書領域における朗読の本質に到達するのは難しいと思われます。 サロンドマリコの「朗読の地図」において、従来の朗読は「比較対象」ではなく、全く別の座標を持つ上演領域の行為です。ここでは、読書領域の朗読を、サロンドマリコの哲学に純化して捉えてみます。 1.「声」は結果であって目的ではない 従来の朗読観に引きずられると、「声をどう出すか」という出口から逆算してしまいます。しかし、読書領域の朗読は、自らの身体と脳を使って「語り手」の追体験を試みるーーその行為のプロセスそのものです。 言葉が自然に生まれるときに、「声」はただつい


朗読の地図ーー読書領域における「新しい朗読」の提案
長い間、「朗読とは音声表現行為だ」と捉えられてきました。文学作品を声で表現して他者に届けるイメージです。 しかし、文学が属する読書領域に「表現」という言葉を持ち込むとき、そこには、読書や文学の本質を壊しかねない「危うさ」が生まれるのではないでしょうか。 だからこそ、「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」は上演領域(他者に差し出す行為の場)に戻し 、 読書領域には「新しい朗読(語り手の追体験を試みる体験行為)」を据えるーーこの整理が必要なのかもしれません。 1.読書と「従来の朗読」:何が問題なのか? 読書領域に、「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」が持ち込まれた結果、何が起きているのでしょうか。 ① 主客の逆転という危うさ 本来、読書の主役は「作品(語り手)」です。作品を大事にしてこそ、読者である私たちは、豊かな「読書体験」を享受できます。 しかし、そこに「表現」という言葉を持ち出した途端、意識の主役は「自分(読み手)」になります。「どう表現するか」という自我が、無意識のうちに前に出てしまうのでしょう。 いつの間にか文学作品は、上演台


身体を演算装置として使う→脳の成長
文学作品(詩や小説)の朗読、もちろん「新しい朗読」をしていると、頭で理解するというより、ふと感覚的に寄り添えたり、身体が自然に反応したりーーそんな瞬間が訪れます。 プロセスの整理として、「新しい朗読」における脳と身体の役割を考えてみます。 ここでの左脳・右脳は、厳密な脳科学的区分というより、思考のモードをわかりやすく示すための比喩として捉えてください。 1.左脳を「ゼロベース」にする勇気 「従来の朗読(読み上げ)」は、左脳で文字を既存の言葉として処理し、既成のアクセントや音声表現技術で「正解」を出そうとします。 しかし、「新しい朗読」では左脳を一旦リセットします。 左脳で受け取ったのは、あくまで右脳の広大な虚構世界(イメージ)へ アクセスする ための「鍵(手がかり)」としての言葉。いつまでも言葉そのものに 執着せず、一旦手放す ことで、脳の深い部分での再構築が始まります。 2.右脳による「虚構世界の創造」と身体の同期 左脳から渡された手がかりをもとに、右脳が、その情景、温度、感情、空気感を 「今ここにある現実」 として創り出すのです。...


