

朗読:私がととのう読書時間 ③
「文学作品」とは何か。それを対象とする「朗読」とは何か。問いと確認を繰り返しながら、朗読を、「文学作品の奥深さをていねいに味わう読書行為」として再発見してきました。この試みも、今回が最終回です。 ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。 四半世紀にわたり朗読の存在意義を考え続けるうちに、朗読は、「文学作品を幸せに享受するための読書法」なのだと確信するようになりました。「朗読」と「音声表現」は、異なる領域に属する行為だとしなやかにお伝えできるようにもなってきました。 私がいま生きているのは、「朗読教室」の講師を始めた頃には想像もしていなかった世界ーーなんとも面白い、そして、なんとも愛おしい世界です。 いっしょに朗読の道を歩いてくださる皆さま、応援してくださる皆さまのおかげで、こんなにも豊かな景色と出逢えました。心より感謝申し上げます。 ■ 2001年、「朗読教室」の講師を引き受ける 当時は、私自身も、朗読とは「声を出して読む行為」であり「音声表現」であるといったイメージを鵜呑みにしていました。 でも、朗読が対象とする「文学作品」を、まるで
5月1日


朗読:私がととのう読書時間 ②
前回の記事で、朗読は、上演領域に属する表現行為とは異なり、読書領域における「作品世界を自分ごととして生きようとする体験行為」であることをみてきました。 今回は「朗読という体験」へと進んでいきます。 ■ 朗読の定義 サロンドマリコでは、朗読を、「(文学作品の)語り手の体験と同じ体験を試みる行為」と定義しています。 語り手の体験と同じ体験を試みる過程で、身体の一つの反応として、言葉が自然に生まれ出ます。言葉に付随して出る音声は、意識して整えた音声とは、そもそも生成のありようが異なります。 ■ 朗読は読書法である サロンドマリコは、「文学作品の世界を自分ごととして生きようとする読書法」として、朗読を提唱しています。 朗読者は、目の前の言葉を手がかりにして、語り手の体験について仮説を立て、自らの身体と五感と脳を使って検証します。 この仮説と検証の往還を、ときには一人で、ときには仲間とともに愉しんでいるうちに、語り手との距離は徐々に縮まり、自分ごととして作品世界を歩けるようになっていきます。 ☆[サロンドマリコの朗読メソッド]☆ □ はじめに...
5月1日


朗読:私がととのう読書時間 ①
「ほんとはこんなに豊かなんだ…。読めてると思ってたけど、わたし、読めてなかった。」 文学作品の世界を「自分ごと」として生きるとき、私たちは、その奥深さに包まれながら、「浅い読み方をしていた過去の自分」に気づくのかもしれません。 読者の私たちを変える可能性を持っているのが「文学作品」であり、その可能性を開くのが、作品世界を自分ごととして生きようとする「朗読」という読書法です。 これから、朗読とはどのような行為なのかをみていきましょう。「朗読は声に出して読む行為」「朗読は音声表現」というイメージは、いったん脇に置いておきます。 ■ 朗読が存在するのは、上演領域か?それとも読書領域か? 今回の連載では、「文字言語だけで虚構世界が立ち上がる構造」を持つ文学作品を、朗読の対象とします。 さて、朗読は、音声を伴う行為です。 この「音声を伴う」ということから、私たちは自然に上演領域(音声を届ける行為の場)を思い浮かべ、「上演領域に朗読」という配置を、当たり前のものとして受け入れてしまいます。 しかし、観客を想定する「上演領域」に「朗読」を配置するのは、本当に適
5月1日


「読書領域の朗読」へ:パラダイムシフト
「上演領域」から「読書領域」へ移行すると、座標軸は、 虚構世界を“届ける”から、虚構世界を“生きる”に変わります。 これは、朗読における「コペルニクス的転回」といえるかもしれません。 朗読という行為に、聞き手に届ける「音訳」のようなイメージ、創意工夫する「音読(読み上げ)」のようなイメージを持っている人にとっては、まさにパラダイムシフトと感じられる出来事なのだと思います。 ■ 中心が、朗読者から語り手へ 従来の朗読観は、 朗読者を中心 に据えます。 つまり、朗読者が語り手を解釈します。そして、その解釈を反映させた音声を聞き手に届けようとします。 朗読者は、聞き手に感動を与えることを目指し、表現に創意工夫を重ねます。 一方、サロンドマリコの提示する「読書領域の朗読」の朗読観は、 語り手を中心 に据えます。 ここでいう語り手とは、言葉によって虚構世界を立ち上げ、読者に体験を促そうとする言語主体です。 朗読者は、語り手の追体験を試みます。そうすることで、語り手に接近しようとします。 つまり、身体を使った「仮説と検証」の往還で、語り手に近づくことを目指し
2月22日


読書領域の朗読:世界の受け取り方が変わっていく
前回のブログでは、サロンドマリコの方法論をご紹介しました。 今回は、「読書領域の朗読」が私たちにどのような変化をもたらすのか、考えてみたいと思います。 ■ 読書領域の朗読は… 読書領域の朗読は、文学作品の言葉を、急いで意味に回収しません。つまり、解釈してわかったことにしません。(解釈を反映させて)表現することもしません。 言葉が生まれる脳・五感・身体に思いを馳せて仮説を立て、自らの身体で検証します。 仮説と検証を繰り返していると、ゆっくり語り手との距離が縮まります。語り手に接近したとき、自分のなかに初めての感情や感覚が立ち上がる…それを待ちます。 ■ 朗読がもたらすものは… 「読書領域の朗読」を通してこのような習慣を持つと、人の言葉を、結論よりも背景ごと聞けるようになります。出来事を、善悪や成功失敗だけで切らなくなるし、すぐ理解できない他者や状況に、居場所を残せるようになります。 これは、人間や出来事を味わえる脳になるということなのでしょう。 文学体験を目指す「読書領域の朗読」は、 ・共感力が育ちます ・感性が豊かになります といった言葉ではとう
2月10日


サロンドマリコの方法論:「読書領域の朗読」入門テキスト
(注)ここで扱うのは、上演領域における「読み語り」ではなく、読書領域の「朗読」です。 サロンドマリコでは、読書領域の朗読を「語り手の体験と同じ体験を試みる体験行為」と定義しています。(世界を認知する身体の反応として、 予測できない声が自然に出ます 。意識的に声を出す表現行為とはまったく別のものです) 朗読は、「仮説と検証」を繰り返す読書法。検証の際には身体に助けてもらいます。その点がとてもユニークです。この反復を愉しんでいるうちに、語り手との距離は徐々に縮まります。 語り手に寄り添って歩けるようになると、私たち朗読者も(自分ごととして)作品世界を生きることができます。 今回は、朗読の具体的なプロセスをご一緒しましょう。こうしなければ…という決まりごとではありませんが、やっていくうちに、自然に身体に馴染むと思います。 最初のテキストは、詩や児童文学などの短い文学作品です。「左脳」「右脳」という言葉は、情報処理の傾向を表すものとして便宜的に使っています。 ■ 準備①:一通り最後まで読む ひとまず最後まで読みましょう。左脳(言語脳)メインで情報
2月8日


読書領域の朗読:語り手/作者/朗読者の関係を考える
サロンドマリコの提唱する新しい朗読は、「読書領域の朗読」を指します。 ここでいう 読書領域 とは、「表現」を扱う上演領域とは異なり、あくまで「読書そのもの」を扱う領域です。詩や小説、エッセイなど、すでに音声を内包している言葉を対象とします。朗読者にとって、 声は「出す」ものではなく、 世界を認知した身体の反応として 自然に「出る」もの。 体験の副産物です。 一方、上演領域では、台本と呼ばれる「音声になる前の言葉」を扱います。どのように声を出して表現するか、その技術を磨きます。したがって、上演領域の読み語りと、読書領域の朗読は、まったく異なる行為です。 読み語りが「聞き手に向けた表現行為」 であるのに対して、 朗読は「文学作品を幸せに享受する読書法」 といえます。サロンドマリコでは、朗読を次のように定義しています。 朗読の定義:語り手の体験と同じ体験を試みる体験行為 今回は、読書領域における「 語り手 / 作者 / 朗読者 」の関係について考えます。 朗読は、声を目的とする表現行為ではなく、語り手の体験と同じ体験を試みる体験行為だ...
1月23日


読書領域の朗読:たとえば丁寧に観察する
いつもブログをお読みくださってありがとうございます。今日も「朗読de脳育」愉しんでいらっしゃいますか♪ さて。わたしたち読書領域の朗読者は、詩や小説の言葉が生まれる際の五感の働き・脳の働き・身体のありようを ていねいに探り 、〈語り手〉や発話者(登場人物)に対する理解を少しずつ深めていきます。その都度、体験を試みながら。(←『新しい朗読ー語り手の体験を生きる読書法』p34・37) それは、 虚構の作品世界を、語り手とともに生きて、新しい体験をしたいから です。結果として、言葉が内包している音声と出会えるかもしれません。 それでは、実際に朗読していきましょう♪ ■ ちいさな、ちいさな、りすでした。 今回は、森絵都さんの作品『こりす物語』の冒頭部分を、いっしょに朗読してみましょうか。〈語り手〉は次のように語っています。 ちいさな、ちいさな、りすでした。 音声表現するひと(=声を与えようとするひと) は、観察と推察にさほど時間をかけず、(わかったわ。この〈語り手〉は、りすがちいさいことを強調したいのね)と 解釈 して、その 解釈を音声表現に反映 させよ
1月12日
