

「わからない」とどう付き合うか
◾️「わからない」を、どう捉えているか? 「わからない」のはダメなこと。早く理解しなければならない。 私たちは、このような環境で、「すぐにわかったことにする」習慣を、身につけたのかもしれません。 でも、「すぐにはわからないこと」まで、すぐに「わかったこと」にするのは、はたして幸せなことなのでしょうか。 「わからない」から、他者に出逢えます。 「わからない」から、世界が広がります。 じつは、「わからない」のはダメなことなんかじゃなくて、とてもステキで大事なことだとは思いませんか? ◾️「わからない」と、どう付き合ってる? 幼い頃は、「わからない」が当たり前です。 でも、「わからないのはダメ」という環境で育つうちに、次第に、「わからないのは恥ずかしい」とか「わからないとバカにされる」といった不安を抱くようになるのではないでしょうか。 「わからない状態」を、恥ずかしく思ったり、苦痛に感じたりするからこそ、無意識のうちに、それを避けるようになるのでしょう。 具体的には、すぐにはわかるはずのない「わからないこと」まで、「すぐにわかる」かたちに都合よく変えて
7月29日


「わからない状態」を面白がれるかも♪
◾️うれしいメッセージ 先日のレッスンでは、Kさまの「試行錯誤がたのしいです♪」とのお言葉に、「ほんと!そうですよね〜」と大きく頷きました。 仮説と検証を繰り返す過程で生まれる試行錯誤は、「わからないこと」がわからないとわかるところから始まります。そして、試行錯誤の回数が多ければ多いほど、脳はやわらかくふかふかに耕されるように感じます。 Kさま、ご一緒に試行錯誤をたのしめてとても幸せです。ありがとうございます。 ◾️ほとんどの人は、「わからない状態」が苦痛 Kさまのように「わからない状態を面白がれる人」は、ほんの一部かもしれません。多くの人が、「わからない状態を避けてしまう」ように感じます。 たとえば朗読の実践には、『朗読とは何か?』という概念の共有が欠かせませんが、「わからない状態でいることが苦痛な人」は、この本質的な話を直ちにわかろうとして、「既存の回路」だけを使って受け取り、それで「わかったこと」にしているように感じます。 でも、これまでの経験や価値観とは異なる話、つまり、既存の回路だけでは受け取れない話を、既存の回路だけで処理してしまった
7月25日


試行錯誤の入り口に立つ
語り手の体験と同じ体験を急いでいませんか? 正解の音声を探していませんか? 音声を目的にしていませんか? それでは、「言葉と体験の調和」を目指すのは、難しいかもしれません。 朗読の定義を、あらためて確認しておきましょう。『語り手の体験と同じ体験を“試みる”行為』でした。 仮説を立て、自らの身体で検証する。 仮説と検証の往還で生まれる試行錯誤をたのしむ。 この営みこそが、言葉と体験を調和へと導く「朗読という読書法」であり、朗読の音声は、自らの虚構体験を仲間に開く手段です。 ◾️「体験したつもり」から「体験」へ:そこに試行錯誤が生まれる どのように仮説を立てるのか? どのように検証するのか? レッスンでは、仮説の立てかたと検証のしかたを、ゆっくり時間をかけて解説しています。 仮説を立てるのも、それを検証するのも、初めての体験かもしれません。戸惑って当たり前です。 わたし自身の例をあげて、「こんなふうに仮説を立てましたよ」「こんなふうに体験しましたよ」と、試行錯誤の一つひとつをお話ししています。 お仲間が試行錯誤するご様子も、とても参考になります。..
7月23日


「朗読をたのしんでいます」ご感想ありがとうございます♪
【朗読とは、文学作品の語り手の体験と同じ体験を“試みる”行為である。】 最近この定義が、ようやく、すんなり、出てくるようになりました。そして、体験を試みることによって、文学作品の豊かさを少しづつ得られているように思います。 私にとって朗読の愉しさは、仮説と検証の繰り返しの中にあります。 仮説に基づいて検証した結果、全く違う言葉が出てくることが多々あります。しかし、それは間違いではなく「私はこのような場面ではこう思ったり、こう言ったりするんだな」と語り手との違いに気づく起点となってくれます。 私はこうだけど、語り手はちがう、どうしたら近づくことが出来るのか、仮説と検証を繰り返していきます。そのうちに何故か違いに気づく事が愉しくなってきます。 そして、体験に近づいていく過程で、今まで持ったことがないような感覚や感情を覚えたことがあります。それは、「あれっ私にもこんな感情あったんだ」と自分自身でも驚くような心地よいものでした。きっと語り手の体験に近づけたからこその結果だと思っています。 その心地よさをもう一度味わいたいと思いながら、朗読をたのしんでいま
7月3日


朗読とは? 『小説』誕生以降の文学作品と『朗読』
「朗読は音声表現」というイメージは、どうして広がったのでしょうか。 明治になると、文学の新しい形式として「小説」が誕生しました。 小説は、「文字言語だけで虚構世界が立ち上がる構造」を持ちます。つまり、「語り手の認知や思考」をそのまま反映させた言葉によって、読者に、虚構の作品世界を「自分ごと」として生きることを促します。読者一人ひとりが、自ら文字言語と向き合い、各々の虚構世界を立ち上げる構造なのです。 小説の誕生によって文学は変容し、小説誕生以降の文学作品は、もはや音声でやり取りするものではなくなりました。 では、当時の朗読は、この文学の変容に対応したのでしょうか。 対応しなかったのだと思います。小説が誕生する前の「文章を読み上げ、音声で届ける」というスタイルは変わらなかった。そのため、読書行為の中心は、次第に「黙読」に移っていったと考えられます。 朗読は、その後も、はっきりと定義されることのないままに「文章を読み上げる行為」として受け継がれ、やがて、「表現する喜び」の受け皿となっていったのかもしれません。 そして、「朗読は音声表現」というイメージ
6月29日


朗読の音声とは?
あなたにとって、朗読の音声とは何ですか? 「あれ、なんだっけ?」でもいいですよ。この記事の最後に、あらためて音声記事の抜粋を載せておくので読んでみてくださいね。 では、話を戻しましょう。 あなたは、また音声を目的にしていませんか? 「この音声で大丈夫かしら?」と不安になったり、「どんな声を出そうかしら?」など間や緩急を工夫したり、「これでいいか悪いかを知りたい」と指導してほしくなったり… こういうときは、上演領域にいると気づけるといいですね。 朗読者は、言葉が生まれる際に伴う音声で、虚構世界を生きる「自らの体験」を仲間に開きます。各々の体験を持ち寄れば、さらに語り手に近づいていけます。 「あなたの体験」を開く「あなたの音声」は、あなたが仲間に贈る「愛」なのかもしれません。 仲間への愛で開かれる「体験」に伴う音声だからこそ、「朗読の音声」は、ともに語り手へ近づいていくための大切な手段となるのでしょう。 まずは、虚構世界をイメージすること。そして、自分の身体と五感を使って生きてみること。これは、あなた自身にしかできないことです。 自分の知覚と認知が、
6月19日


新しい自分と出会う旅
朗読は、上演領域で行われる朗読劇や語り・読み語りといった「上演行為」とは異なり、読書領域で行われる「読書行為」だと考えられます。 その実態は、「(語り手の)言葉の生成」に立ち会おうとして、自分から言葉が生まれる体験を軽快に重ねて、徐々に語り手に近づいていく営みです。「仮説と検証」の往還を 面白がっていると、やがて「文学体験」につながるように感じます。 文学作品の世界を自分ごととして生きようとするなかでの試行錯誤、それら全てを含めて、文学体験なのかもしれませんね。 試行錯誤の一つひとつが、私たちの脳をやわらかく耕してくれます。 すると…まるでふかふかに耕された土壌に初々しい芽生えがあるように、日常ではあまり使っていなかった認知回路が少しずつ働き始め、脳はゆっくりと成長していくのでしょう。 認知が変わると、見えている世界が変わります。 きっと、幾つになっても「新しい自分」と出会えます。 文学作品を仲間とともに享受する「朗読」。この読書行為を続けてきて、世界はよろこびと発見に満ちているーーそう実感できるようになりました。 あなたも、朗読(もちろん、「語
6月18日


私がととのう読書時間ー朗読という読書法の魅力ー〈3〉
「文学作品」とは何か。それを対象とする「朗読」とは何か。 問いと確認を繰り返しながら、朗読を、「文学作品の奥深さをていねいに味わう読書行為」として再発見してきました。この試みも最終回です。 連載をここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。 四半世紀にわたり朗読の存在意義を考え続けるうちに、朗読は、「文学作品を幸せに享受するための読書法」なのだと確信するようになりました。「朗読」と「音声表現(朗読劇や語り)」は、異なる領域に属する行為だと、しなやかにお伝えできるようにもなってきました。 私がいま生きているのは、「朗読教室」の講師を始めた頃には想像もしていなかった世界ーーなんとも面白い、そして、なんとも愛おしい世界です。 いっしょに朗読の道を歩いてくださる皆さま、応援してくださる皆さまのおかげで、こんなにも豊かな景色と出逢えました。心より感謝申し上げます。 ■ 2001年、「朗読教室」の講師を引き受ける 当時は、私自身も、朗読とは「声を出して読む行為」であり「音声表現」であるといったイメージを鵜呑みにしていました。 でも、朗読が対象とする「文
5月30日
