

読書領域の朗読:語り手/作者/朗読者の関係を考える
サロンドマリコの提唱する新しい朗読は、「読書領域の朗読」を指します。 ここでいう 読書領域 とは、「表現」を扱う上演領域とは異なり、あくまで「読書そのもの」を扱う領域です。詩や小説、エッセイなど、すでに音声を内包している言葉を対象とします。朗読者にとって、 声は「出す」ものではなく、 世界を認知した身体の反応として 自然に「出る」もの。 体験の副産物です。 一方、上演領域では、台本と呼ばれる「音声になる前の言葉」を扱います。どのように声を出して表現するか、その技術を磨きます。したがって、上演領域の読み語りと、読書領域の朗読は、まったく異なる行為です。 読み語りが「聞き手に向けた表現行為」 であるのに対して、 朗読は「文学作品を幸せに享受する読書法」 といえます。サロンドマリコでは、朗読を次のように定義しています。 朗読の定義:語り手の体験と同じ体験を試みる体験行為 今回は、読書領域における「 語り手 / 作者 / 朗読者 」の関係について考えます。 朗読は、声を目的とする表現行為ではなく、語り手の体験と同じ体験を試みる体験行為だ...
1月23日


読書領域の朗読:たとえば丁寧に観察する
いつもブログをお読みくださってありがとうございます。今日も「朗読de脳育」愉しんでいらっしゃいますか♪ さて。わたしたち読書領域の朗読者は、詩や小説の言葉が生まれる際の五感の働き・脳の働き・身体のありようを ていねいに探り 、〈語り手〉や発話者(登場人物)に対する理解を少しずつ深めていきます。その都度、体験を試みながら。(←『新しい朗読ー語り手の体験を生きる読書法』p34・37) それは、 虚構の作品世界を、語り手とともに生きて、新しい体験をしたいから です。結果として、言葉が内包している音声と出会えるかもしれません。 それでは、実際に朗読していきましょう♪ ■ ちいさな、ちいさな、りすでした。 今回は、森絵都さんの作品『こりす物語』の冒頭部分を、いっしょに朗読してみましょうか。〈語り手〉は次のように語っています。 ちいさな、ちいさな、りすでした。 音声表現するひと(=声を与えようとするひと) は、観察と推察にさほど時間をかけず、(わかったわ。この〈語り手〉は、りすがちいさいことを強調したいのね)と 解釈 して、その 解釈を音声表現に反映 させよ
1月12日


上演領域の読み語り/読書領域の朗読:陸上と水中の違い
[朗読の整理] ①従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)を上演領域に戻し「読み語り」と呼ぶ ②読書領域には新しい朗読(語り手の追体験を試みる体験行為)を「朗読」として据える 上演領域は陸上、読書領域は水中、そんなイメージです。 ■ 優劣の問題ではなく、環境の違い 「読み語り」と「朗読」は、比べるものではありません。前提となる環境そのものが違うからです。 陸上では、誰もが当たり前のように歩きます。 ですから、「歩幅」「歩く速さ」「歩くフォーム」など、さまざまな歩く技術が、最初から語られても、さほど違和感はありません。 でも、水中では、そうはいきません。 じつは、誰だって水中で浮きます。 でも、歩くことがすべてだと思っていると、浮くことが難しくなります。 水中でも歩こうとするからです。 もちろん、水中ではうまく歩けません。そして、「歩こう」という意識のままでは、浮きません。 浮くこと。それがすべてです。 浮くためには、歩こうとしないことです。 「力を抜くこと」を覚え、「沈まない」と知ることです。 ■ つべこべ言わずにやる 歩くことがすべてだと思って
1月6日


新しい朗読:読書領域の学びと体験
〜読書と朗読が繋がることを願って〜 長い間、朗読は、「声の技術」や「表現の巧拙」で評価される、いわば上演領域のものとして捉えられてきました。 しかし、文学作品を味わう読書領域における朗読は、音声の在り方も価値も、まったく別の座標の上にあります。 ここで行いたいのは、読書領域と上演領域の区分を使い、いま「朗読」と呼ばれている行為を整理することです。 上演領域で行われる「読み語り」は、上演台本を創意工夫して音読する(読み上げる)表現行為。読書領域で行われる「朗読」は、文学体験を目指す体験行為。このような整理を提案します。 1.「読み語り」(上演領域)とは何か 上演領域で行われる「読み語り」は、文字や文章を、声に乗せて聞き手に届ける表現行為といえます。 ■言葉にふさわしい声を自分がつくる ■ 声を出す。間や声色、感情表現など、創意工夫が中心 ■ 聞き手の感動や、聞き手とのコミュニケーションが目的 ■ 上演を前提に創作された台本を扱う ■ 読書領域における詩や小説・物語・エッセイも、上演台本とみなされる この領域では、表現者の技術や表現力が価値を持ちま
1月4日


あけましておめでとうございます(^^♪
あけましておめでとうございます 楽しいお正月をお過ごしでしょうか♪ 昨年は、皆さまとの歩みの中で見つかった新たな朗読を、『新しい朗読ー語り手の体験を生きる読書法』という本にまとめることができて、また、そこからご一緒に学びを深めることができて、本当に幸せな一年でした☆ 皆さま、こころよりありがとうございました! 本年も、ワクワクしながら取り組んでまいりましょう♪どうぞよろしくお願いいたします(^^)
1月3日


「朗読」を、読書領域に:表現の座標を離れるということ
(この記事は、前回のブログ「朗読の地図」とあわせてお読みください) たしかに長い間、朗読は「声の技術」として捉えられ、「表現の巧拙」が評価されてきました。 そのような土壌があるからでしょう。読書領域の朗読(サロンドマリコの「新しい朗読」)について語っても、多くの人が「従来の朗読(表現としての朗読)」を基準点に置き、そこからの「差分」で解釈しようとします。 それは無理もないことですが、そのままでは、本質に近づくことが難しくなります。 なぜなら、サロンドマリコの「朗読の地図」における従来の朗読は、読書領域の朗読とは全く別の座標軸を持つ「上演領域」に存在するからです。 上演領域では、「うまく読めているか」「聞き手に伝わっているか」をつねに外側から気にしている自分がいますが、読書領域では、気づいたら虚構世界を生きていて声のことなど何も考えていない自分がいます。 それでは、「読書領域の朗読」をサロンドマリコがどう捉えているのか、あらためてみていきます。 1.「声」は結果であって目的ではない 従来の朗読観に引きずられると、「声をどう出すか」という出口から逆算
1月1日


朗読の地図ーー読書領域における「新しい朗読」の提案
長い間、「朗読とは音声表現行為だ」と捉えられてきました。文学作品を声で表現して他者に届けるイメージです。 しかし、文学が属する読書領域に「表現」という言葉を持ち込むとき、そこには、読書や文学の本質を壊しかねない「危うさ」が生まれるのではないでしょうか。 だからこそ、「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」は上演領域(他者に差し出す行為の場)に戻し 、 読書領域には「新しい朗読(語り手の追体験を試みる体験行為)」を据えるーーこの整理が必要なのかもしれません。 もちろん、これは従来の朗読を否定するものではありません。それぞれが最も生きる領域を探すチャレンジです。 1.読書と「従来の朗読」:何が問題なのか? 読書領域に、「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」が持ち込まれた結果、何が起きているのでしょうか。 ① 主客の逆転という危うさ 本来、読書の主役は「作品(語り手)」です。作品を大事にしてこそ、読者である私たちは、豊かな「読書体験」を享受できます。 しかし、そこに「表現」という言葉を持ち出した途端、意識の主役は「自分(読み手)」になります。
2025年12月27日


身体を演算装置として使う→脳の成長
文学作品(詩や小説)の朗読、もちろん「新しい朗読」をしていると、頭で理解するというより、ふと感覚的に寄り添えたり、身体が自然に反応したりーーそんな瞬間が訪れます。 プロセスの整理として、「新しい朗読」における脳と身体の役割を考えてみます。 ここでの左脳・右脳は、厳密な脳科学的区分というより、思考のモードをわかりやすく示すための比喩として捉えてください。 1.左脳を「ゼロベース」にする勇気 「従来の朗読(読み上げ)」は、左脳で文字を既存の言葉として処理し、既成のアクセントや音声表現技術で「正解」を出そうとします。 しかし、「新しい朗読」では左脳を一旦リセットします。 左脳で受け取ったのは、あくまで右脳の広大な虚構世界(イメージ)へ アクセスする ための「鍵(手がかり)」としての言葉。いつまでも言葉そのものに 執着せず、一旦手放す ことで、脳の深い部分での再構築が始まります。 2.右脳による「虚構世界の創造」と身体の同期 左脳から渡された手がかりをもとに、右脳が、その情景、温度、感情、空気感を 「今ここにある現実」 として創り出すのです。...
2025年12月21日
