新しい朗読ー文学作品を読むということー
- marikoroudoku
- 10月10日
- 読了時間: 4分
更新日:10月15日

多くの人の前で朗読する際には、どうしても聞いている人を意識してしまいますよね。
朗読を伝達行為と捉えると、うまく読めているか、声は聞き取りやすいか、間違えないか。そのようなことが気になります。
ここで少し、朗読と文章の関係について考えてみましょう。朗読と文章は切り離せません。文章の種類によって、朗読のありようも変わると考えるのが自然ではないでしょうか。
アナウンス原稿のような文章の朗読は、まさしく伝達行為だと考えられます。では、フィクションはどうでしょう?アナウンス原稿の朗読と同じような伝達行為なのでしょうか?
たとえば絵本。一度読めば理解できるわかりやすい文章は、音声でも手渡すことができそうです。音声のほうが豊かに届く場合も多々あると思います。でも、伝達行為という言葉ではしっくりきません。
絵本の朗読ー読み聞かせをする際には、「私がわかりやすく伝える」「私が魅力的に表現する」というより、「私はただ作品世界を生きる。そうすることで、聞き手もまた作品世界を生きることができるんだ」 といった心持ちで、体験をたのしむのがいいのだろうと思います。作品世界を伝達するというより、ともに体験するのです。
一方で文学作品は、一度読めばわかるといった種類のものではありません。読むたびに理解が深まり、その印象も変化します。それこそが、文学作品の魅力です。したがって文学作品は、音声で手渡すものでも、受け取るものでもないのでしょう。
以下は、深谷百合子さんがご自身のnoteで紹介してくださった、私との朗読レッスンの様子です。抜粋した実際のやり取りを通して、朗読の本質について考えるヒントになれば幸いです(^^)
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まりこ先生:芥川龍之介が書いた『蜘蛛の糸』を読んだことはありますか。
ゆりこ:はい、学校の教科書に載っていたような記憶があります。人間の浅ましさを戒めるようなお話ですよね。
まりこ先生:さぁ、それはどうでしょうか。「この作品はこういう話」と決めてしまうのは、もったいないかもしれませんね。まずは朗読を通して、作品の世界を体験していきましょう。一つ目の段落から朗読してみてください。
ゆりこ:「ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊(ずい)からは、何とも云えない好い匂いが、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう」
まりこ先生:ゆりこさんは今、何を考えながら読んでいましたか。
ゆりこ:まずは、噛んだり、読み間違えたりしないように注意していました。それから、読点のあるところで息継ぎをするように意識しました。あとは、「玉のように真っ白」とか「何とも云えない好い匂い」を強調したほうがよいかなと思って読みました。
まりこ先生:つまり、ゆりこさんは「ゆりこさんとして、ここに書かれている文字を音読した」ということになりますね。
ゆりこ:朗読は「声に出して読むこと」ではないのですか。
まりこ先生:朗読は「朗読者の音声表現だ」という考え方もありますが、何を朗読するかによって「朗読」の中身は大きく異なると私は考えています。たとえば、音声で届く前提のアナウンス原稿や台本の朗読は、朗読者が解釈して表現する「朗読者の音声表現行為」といえるのかもしれません。
ゆりこ:朗読者が解釈して表現する……。つまり、さっきの私の朗読も、「私が自分なりの解釈で表現した」という「音声表現」になるということですか。
まりこ先生:そうですね。これから私たちが取り組む文学作品の朗読は、「理解して、体験して、理解を深めていく行為」です。じっくりと言葉をいつくしみ、言葉とともにある体や心をていねいに探り、文字となっている言葉が本来持っているであろう「音声と出逢っていく行為」です。文学作品の朗読は、「言葉を発している他者への理解を深めていく行為」だとも言えますね。
以上、百合子さんのnoteから一部を掲載させていただきました。
文学作品の朗読は、声で伝えたり届けたりする行為ではなく、他者である語り手の体験を「他人事ではなく自分ごと」にしていく行為だと、そのように考えると、作品理解はどんどん深まっていきます。言葉にふさわしい音声は、あせらなくても体験の副産物として自ずと生まれてきてくれます。
さあ、あなたはどう考えますか?
深谷百合子さんのnote、よかったらあわせてお読みください♪




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