

朗読の音声とは?
あなたにとって、朗読の音声とは何ですか? 「あれ、なんだっけ?」でもいいですよ。この記事の最後に、あらためて音声記事の抜粋を載せておくので読んでみてくださいね。 では、話を戻しましょう。 あなたは、また音声を目的にしていませんか? 「この音声で大丈夫かしら?」と不安になったり、「どんな声を出そうかしら?」と工夫したり、「いいか悪いかを知りたい」と指導してほしくなったり… こういうときは、上演領域にいると気づけるといいですね。 朗読者は、言葉が生まれる際に伴う音声で、虚構世界を生きる「自らの体験」を仲間に開きます。各々の体験を持ち寄れば、さらに語り手に近づいていけます。 あなたの体験を開く音声は、あなたが仲間に贈る「愛」なのかもしれません。 愛ある音声だからこそ、「朗読の音声」は語り手に近づいていく手段となるのでしょう。 まずは、虚構世界をイメージすること。そして、自分の身体と五感を使って生きてみること。これは、あなた自身にしかできないことです。 自分の知覚と認知が、仮説と検証を重ねてどんなふうに変化していくのか。試行錯誤そのものを面白がってみまし
3 日前


新しい自分と出会う旅
朗読は読書行為である。 その実態は、言葉が生まれる体験を軽快に重ねる営みである。 面白がっていると、「文学体験」につながる。 文学作品の世界を自分ごととして生きようとするなかでの試行錯誤、それら全てを含めて、文学体験なのかもしれませんね。 試行錯誤の一つひとつが、私たちの脳をやわらかく耕してくれます。 すると…まるでふかふかに耕された土壌に初々しい芽生えがあるように、日常ではあまり使っていなかった認知回路が少しずつ働き始め、脳はゆっくりと成長していくのでしょう。 認知が変わると、見えている世界が変わります。 きっと、幾つになっても「新しい自分」と出会えます。 「朗読」という読書行為を続けてきて、世界はよろこびと発見に満ちているーーそう実感できるようになりました。 あなたも、のんびりと朗読をたのしんでみませんか?サロンドマリコがそっと伴走します。
3 日前


私がととのう読書時間ー朗読という読書法の魅力ー〈3〉
「文学作品」とは何か。それを対象とする「朗読」とは何か。 問いと確認を繰り返しながら、朗読を、「文学作品の奥深さをていねいに味わう読書行為」として再発見してきました。この試みも最終回です。 連載をここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。 四半世紀にわたり朗読の存在意義を考え続けるうちに、朗読は、「文学作品を幸せに享受するための読書法」なのだと確信するようになりました。「朗読」と「音声表現(朗読劇や語り)」は、異なる領域に属する行為だと、しなやかにお伝えできるようにもなってきました。 私がいま生きているのは、「朗読教室」の講師を始めた頃には想像もしていなかった世界ーーなんとも面白い、そして、なんとも愛おしい世界です。 いっしょに朗読の道を歩いてくださる皆さま、応援してくださる皆さまのおかげで、こんなにも豊かな景色と出逢えました。心より感謝申し上げます。 ■ 2001年、「朗読教室」の講師を引き受ける 当時は、私自身も、朗読とは「声を出して読む行為」であり「音声表現」であるといったイメージを鵜呑みにしていました。 でも、朗読が対象とする「文
5月30日


私がととのう読書時間ー朗読という読書法の魅力ー〈2〉
『私がととのう読書時間 ー朗読という読書法の魅力ー〈1〉』では、朗読は、上演領域に属する表現行為とは異なり、読書領域における「作品世界を自分ごととして生きようとする体験行為」であることをみてきました。 今回は、「朗読という体験」へと進んでいきます。 ■ 朗読の定義 サロンドマリコでは、朗読を、「(文学作品の)語り手の体験と同じ体験を試みる行為」と定義しています。 語り手の体験と同じ体験を試みる過程で、身体の一つの反応として、自然にふっと言葉が生まれ出ます。言葉に付随して出る音声は、意識して整えた音声とは、そもそも生成のありようが異なります。 ■ 朗読は読書法である サロンドマリコは、「文学作品の世界を自分ごととして生きようとする読書法」として、朗読を提唱しています。 朗読者は、目の前の言葉を手がかりにして、語り手の体験について仮説を立て、自らの身体と五感と脳を使って検証します。 この仮説と検証の往還を、ときには一人で、ときには仲間とともに愉しんでいるうちに、語り手との距離は徐々に縮まり、自分ごととして作品世界を歩けるようになっていきます。 ☆
5月30日


私がととのう読書時間ー朗読という読書法の魅力ー〈1.5枠組み移行ガイド〉
「朗読なのだから、最終的には“誰かに向かう行為”だろう」と、まだ思っていますか? それは、理解不足や誤読のせいではなく、脳の自然な働きです。 さまざまな経験を積み重ねた私たちの脳は、個別の「枠組み」を持っています。そして、知らないことやわからないことに出会うと、まずは、この『既存の枠組み』で「処理」しようとします。 『新しい枠組み』を提示されても、脳は何度も『既存の枠組み』の側へ戻ろうとします。それは、まだ『新しい枠組み』を使い慣れていないからです。 前回のブログ記事[私がととのう読書時間 ー朗読という読書法の魅力ー 〈1〉]には、「朗読は読書領域の行為である」という『新しい枠組み』が提示されています。 でも、私たちの脳は、何度も、「朗読は上演領域の行為である」という『既存の枠組み』に戻ろうとするでしょう。 しょうがないですね。脳の自然な働きなのですから。 だからこそ、私たちは、「上演領域」に何度も引き戻されながらも、意識的に「読書領域」に戻り、語り手の体験と同じ体験を試み続けましょう。 その揺れの中で、『既存の枠組み』が静かにほどけて、
5月30日


私がととのう読書時間ー朗読という読書法の魅力ー〈1〉
「ほんとはこんなに豊かなんだ…。読めてると思ってたけど、わたし、読めてなかった。」 文学作品の世界を「自分ごと」として生きるとき、私たちは、その奥深さに包まれながら、「浅い読み方をしていた過去の自分」に気づくのかもしれません。 読者の私たちを変える可能性を持っているのが「文学作品」であり、その可能性を開くのが、作品世界を自分ごととして生きようとする「朗読」という読書法です。 これから、朗読とはどのような行為なのかをみていきましょう。「朗読は声に出して読む行為」「朗読は音声表現」というイメージは、いったん脇に置いておきます。 ■ 朗読が存在するのは、上演領域か?それとも読書領域か? この連載では、「文字言語だけで虚構世界が立ち上がる構造」を持つ文学作品を、朗読の対象とします。 さて、朗読は、音声を伴う行為です。 この「音声を伴う」ということから、私たちは自然に上演領域(音声を届ける行為の場)を思い浮かべ、「上演領域に朗読」という配置を、当たり前のものとして受け入れてしまいます。 しかし、観客を想定する「上演領域」に「朗読」を配置するのは、本当に適切
5月30日


「読書領域の朗読」へ:パラダイムシフト
「上演領域」から「読書領域」へ移行すると、座標軸は、 虚構世界を“届ける”から、虚構世界を“生きる”に変わります。 これは、朗読における「コペルニクス的転回」といえるかもしれません。 朗読という行為に、聞き手に届ける「音訳」のようなイメージ、創意工夫する「音読(読み上げ)」のようなイメージを持っている人にとっては、まさにパラダイムシフトと感じられる出来事なのだと思います。 ■ 中心が、朗読者から語り手へ 従来の朗読観は、 朗読者を中心 に据えます。 つまり、朗読者が語り手を解釈します。そして、その解釈を反映させた音声を聞き手に届けようとします。 朗読者は、聞き手に感動を与えることを目指し、表現に創意工夫を重ねます。 一方、サロンドマリコの提示する「読書領域の朗読」の朗読観は、 語り手を中心 に据えます。 ここでいう語り手とは、言葉によって虚構世界を立ち上げ、読者に体験を促そうとする言語主体です。 朗読者は、語り手の追体験を試みます。そうすることで、語り手に接近しようとします。 つまり、身体を使った「仮説と検証」の往還で、語り手に近づくことを目指し
2月22日


読書領域の朗読:世界の受け取り方が変わっていく
前回のブログでは、サロンドマリコの方法論をご紹介しました。 今回は、「読書領域の朗読」が私たちにどのような変化をもたらすのか、考えてみたいと思います。 ■ 読書領域の朗読は… 読書領域の朗読は、文学作品の言葉を、急いで意味に回収しません。つまり、解釈してわかったことにしません。(解釈を反映させて)表現することもしません。 言葉が生まれる脳・五感・身体に思いを馳せて仮説を立て、自らの身体で検証します。 仮説と検証を繰り返していると、ゆっくり語り手との距離が縮まります。語り手に接近したとき、自分のなかに初めての感情や感覚が立ち上がる…それを待ちます。 ■ 朗読がもたらすものは… 「読書領域の朗読」を通してこのような習慣を持つと、人の言葉を、結論よりも背景ごと聞けるようになります。出来事を、善悪や成功失敗だけで切らなくなるし、すぐ理解できない他者や状況に、居場所を残せるようになります。 これは、人間や出来事を味わえる脳になるということなのでしょう。 文学体験を目指す「読書領域の朗読」は、 ・共感力が育ちます ・感性が豊かになります といった言葉ではとう
2月10日


サロンドマリコの方法論:「読書領域の朗読」入門テキスト
(注)ここで扱うのは、上演領域における「読み語り」ではなく、読書領域の「朗読」です。 サロンドマリコでは、読書領域の朗読を「語り手の体験と同じ体験を試みる体験行為」と定義しています。(世界を認知する身体の反応として、 予測できない声が自然に出ます 。意識的に声を出す表現行為とはまったく別のものです) 朗読は、「仮説と検証」を繰り返す読書法。検証の際には身体に助けてもらいます。その点がとてもユニークです。この反復を愉しんでいるうちに、語り手との距離は徐々に縮まります。 語り手に寄り添って歩けるようになると、私たち朗読者も(自分ごととして)作品世界を生きることができます。 今回は、朗読の具体的なプロセスをご一緒しましょう。こうしなければ…という決まりごとではありませんが、やっていくうちに、自然に身体に馴染むと思います。 最初のテキストは、詩や児童文学などの短い文学作品です。「左脳」「右脳」という言葉は、情報処理の傾向を表すものとして便宜的に使っています。 ■ 準備①:一通り最後まで読む ひとまず最後まで読みましょう。左脳(言語脳)メインで情報
2月8日


読書領域の朗読:語り手/作者/朗読者の関係を考える
サロンドマリコの提唱する新しい朗読は、「読書領域の朗読」を指します。 ここでいう 読書領域 とは、「表現」を扱う上演領域とは異なり、あくまで「読書そのもの」を扱う領域です。詩や小説、エッセイなど、すでに音声を内包している言葉を対象とします。朗読者にとって、 声は「出す」ものではなく、 世界を認知した身体の反応として 自然に「出る」もの。 体験の副産物です。 一方、上演領域では、台本と呼ばれる「音声になる前の言葉」を扱います。どのように声を出して表現するか、その技術を磨きます。したがって、上演領域の読み語りと、読書領域の朗読は、まったく異なる行為です。 読み語りが「聞き手に向けた表現行為」 であるのに対して、 朗読は「文学作品を幸せに享受する読書法」 といえます。サロンドマリコでは、朗読を次のように定義しています。 朗読の定義:語り手の体験と同じ体験を試みる体験行為 今回は、読書領域における「 語り手 / 作者 / 朗読者 」の関係について考えます。 朗読は、声を目的とする表現行為ではなく、語り手の体験と同じ体験を試みる体験行為だ...
1月23日


読書領域の朗読:たとえば丁寧に観察する
いつもブログをお読みくださってありがとうございます。今日も「朗読de脳育」愉しんでいらっしゃいますか♪ さて。わたしたち読書領域の朗読者は、詩や小説の言葉が生まれる際の五感の働き・脳の働き・身体のありようを ていねいに探り 、〈語り手〉や発話者(登場人物)に対する理解を少しずつ深めていきます。その都度、体験を試みながら。(←『新しい朗読ー語り手の体験を生きる読書法』p34・37) それは、 虚構の作品世界を、語り手とともに生きて、新しい体験をしたいから です。結果として、言葉が内包している音声と出会えるかもしれません。 それでは、実際に朗読していきましょう♪ ■ ちいさな、ちいさな、りすでした。 今回は、森絵都さんの作品『こりす物語』の冒頭部分を、いっしょに朗読してみましょうか。〈語り手〉は次のように語っています。 ちいさな、ちいさな、りすでした。 音声表現するひと(=声を与えようとするひと) は、観察と推察にさほど時間をかけず、(わかったわ。この〈語り手〉は、りすがちいさいことを強調したいのね)と 解釈 して、その 解釈を音声表現に反映 させよ
1月12日


上演領域の読み語り/読書領域の朗読:陸上と水中の違い
[朗読の整理] ①従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)を上演領域に戻し「読み語り」と呼ぶ ②読書領域には新しい朗読(語り手の追体験を試みる体験行為)を「朗読」として据える 上演領域は陸上、読書領域は水中、そんなイメージです。 ■ 優劣の問題ではなく、環境の違い 「読み語り」と「朗読」は、比べるものではありません。前提となる環境そのものが違うからです。 陸上では、誰もが当たり前のように歩きます。 ですから、「歩幅」「歩く速さ」「歩くフォーム」など、さまざまな歩く技術が、最初から語られても、さほど違和感はありません。 でも、水中では、そうはいきません。 じつは、誰だって水中で浮きます。 でも、歩くことがすべてだと思っていると、浮くことが難しくなります。 水中でも歩こうとするからです。 もちろん、水中ではうまく歩けません。そして、「歩こう」という意識のままでは、浮きません。 浮くこと。それがすべてです。 浮くためには、歩こうとしないことです。 「力を抜くこと」を覚え、「沈まない」と知ることです。 ■ つべこべ言わずにやる 歩くことがすべてだと思って
1月6日


新しい朗読:読書領域の学びと体験
〜読書と朗読が繋がることを願って〜 長い間、朗読は、「声の技術」や「表現の巧拙」で評価される、いわば上演領域のものとして捉えられてきました。 しかし、文学作品を味わう読書領域における朗読は、音声の在り方も価値も、まったく別の座標の上にあります。 ここで行いたいのは、読書領域と上演領域の区分を使い、いま「朗読」と呼ばれている行為を整理することです。 上演領域で行われる「読み語り」は、上演台本を創意工夫して音読する(読み上げる)表現行為。読書領域で行われる「朗読」は、文学体験を目指す体験行為。このような整理を提案します。 1.「読み語り」(上演領域)とは何か 上演領域で行われる「読み語り」は、文字や文章を、声に乗せて聞き手に届ける表現行為といえます。 ■言葉にふさわしい声を自分がつくる ■ 声を出す。間や声色、感情表現など、創意工夫が中心 ■ 聞き手の感動や、聞き手とのコミュニケーションが目的 ■ 上演を前提に創作された台本を扱う ■ 読書領域における詩や小説・物語・エッセイも、上演台本とみなされる この領域では、表現者の技術や表現力が価値を持ちま
1月4日


「朗読」を、読書領域に:表現の座標を離れるということ
(この記事は、前回のブログ「朗読の地図」とあわせてお読みください) たしかに長い間、朗読は「声の技術」として捉えられ、「表現の巧拙」が評価されてきました。 そのような土壌があるからでしょう。読書領域の朗読(サロンドマリコの「新しい朗読」)について語っても、多くの人が「従来の朗読(表現としての朗読)」を基準点に置き、そこからの「差分」で解釈しようとします。 それは無理もないことですが、そのままでは、本質に近づくことが難しくなります。 なぜなら、サロンドマリコの「朗読の地図」における従来の朗読は、読書領域の朗読とは全く別の座標軸を持つ「上演領域」に存在するからです。 上演領域では、「うまく読めているか」「聞き手に伝わっているか」をつねに外側から気にしている自分がいますが、読書領域では、気づいたら虚構世界を生きていて声のことなど何も考えていない自分がいます。 それでは、「読書領域の朗読」をサロンドマリコがどう捉えているのか、あらためてみていきます。 1.「声」は結果であって目的ではない 従来の朗読観に引きずられると、「声をどう出すか」という出口から逆算
1月1日


「従来の朗読」から「新しい朗読」へ【4連載・最終回】
「新しい朗読」について考えてきた連載も、これが最終回です。 これまでみてきたように、文学作品や物語、そしてエッセイにふさわしいのは、「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」ではなく、「新しい朗読(語り手の追体験を試みる体験行為)」でした。 もちろん「従来の朗読」を否定するわけではなく、文学作品や物語、エッセイなどの読書領域では「新しい朗読」。アナウンス領域やナレーション領域、音声で観客に届けることを前提に用意された文章などの上演領域に関しては、「従来の朗読」。このように 棲み分け が必要だということです。 読書領域において、私たちは、「従来の朗読」から「新しい朗読」へとシフトしていけるといいですね。 どうしても「従来の朗読」のイメージが強く根づいているため、「声を出すのではなく、声は出る」「聞き手を意識しない」といった「新しい朗読」の考え方には、誰もが戸惑いを覚えるかもしれません。私自身がそうでした。 焦ることなくのんびりと、皆で一緒に進んでまいりましょう♪ 1.朗読者の立場から ■ 声を出すのではなく、声は出る 経験者ほど、これまでの「表現
2025年12月18日


エッセイの朗読について【4連載・3回目】
私たちが読む文章には、大きく分けて二つの種類があります。 ひとつは、読者や聞き手に届けるための 「伝達の言葉」 で綴られた文章。 もうひとつは、読者や聞き手を虚構世界に誘うための 「虚構世界を立ち上げる言葉」 で綴られた文章。 前回、前々回のブログで、後者に当たる文学作品(詩や小説)や物語にふさわしいのは、「新しい朗読(語り手の追体験を試みる体験行為)」であることを示しました。 今回は、エッセイの朗読について考えます。 エッセイの言葉は、「伝達の言葉」なのでしょうか。それとも、「虚構世界を立ち上げる言葉」なのでしょうか。 「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」と「新しい朗読」、いったいどちらの朗読がふさわしいのでしょうか。 本稿では、エッセイの言葉を「伝達の言葉」と位置づけつつも、朗読としては「新しい朗読」がふさわしいことをみていきます。 1.エッセイの言葉とは? エッセイは、作者が伝えたい体験や思考などを読者に届けるから、「伝達の言葉」だと思う。けれど、エッセイの中には、知らない世界が広がっている。それは、読者にとっては、知っている現実世
2025年12月13日


物語の朗読について【4連載・2回目】
前回のブログでは、「文学作品にふさわしい朗読とは何か」を考えました。 文学作品(詩や小説)の語り手の言葉は、 「虚構世界を立ち上げる言葉」 であり、言葉と体験が一体となっている。だからこそ、私たち読者は、 言葉を手がかりにして、語り手を追体験することが可能。 体験に伴って表出する音声は、作品理解を深める 手段 となる。 以上のことを踏まえて、文学作品にふさわしいのは、「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」ではなく、それとはまったく異なる 「新しい朗読(語り手の追体験を試みる体験行為)」 であるという結論を導きました。 今回は、物語の朗読に光を当ててみます。 物語にふさわしい朗読とは、どのようなものなのか。 物語の語り手の言葉も、「虚構世界を立ち上げる言葉」ですから、「新しい朗読」がふさわしいといえますが、物語の語り手は、文学作品(詩や小説)の語り手よりも、「読者に近い存在」です。 この違いに着目して、「朗読とは表現ではなく体験行為である」という「新しい朗読」の立場から、物語にふさわしい朗読のあり方を考えます。 1.語り手と読者の距離 ■文学
2025年12月13日


新しい朗読ー文学作品の朗読を再定義する【4連載・1回目】
文学作品を深く味わうための読書法を、「新しい朗読」と名付けました。読書行為に音声を伴うので、黙読ではなく「朗読」。従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)ではないので、「新しい朗読」です。 「朗読」の本質を、「体験を伴う読書行為」として捉え直したい と考えています。 第1章 文章と朗読には相性がある 私たちが読む文章には、大きく分けて二つの種類があります。 ひとつは、 読者や聞き手に内容を届けるための「伝達の言葉」 で綴られ、もうひとつは、 読者や聞き手を虚構世界に誘うための「虚構世界を立ち上げる言葉」 で綴られます。 どちらの言葉も、「言葉」であることに変わりはありませんが、その性質は大きく異なります。 そして、この違いは「どのような朗読がふさわしいか」という問題にも深く関わっています。 ■ 伝達の言葉と従来の朗読 まず、「伝達の言葉」について考えてみましょう。 伝達の言葉は、相手に出来事やその雰囲気、思考などを届けることを目的とする言葉です。 相手が聞き手である場合には、届けたい内容が伝わりやすいように、抑揚をつけたり、間や声の強弱・スピード
2025年12月8日


新しい朗読ー朗読家って?
名古屋西高校での授業の際、「朗読家って初めて知りました!」という生徒の声に、私も思わず「たしかに!」と頷きました。 「朗読家」という仕事、日常であまり耳にしないかもしれませんね。今日は、あらためて「朗読家とは何か」を考えてみたいと思います。 ■ アナウンサー、俳優や声優、朗読家の比較 アナウンサー :伝達者/アナウンス原稿を読み上げ、聞き手に「わかりやすく伝える」ことを目指す 俳優や声優 :表現者/台本の台詞を表現し、観客に「作品を魅力的に届ける」ことを目指す ーーーーーーーーーーーーーーー 朗読家 :体験する読者/文学作品の語り手を追体験し、「作品世界を生きる」ことを目指す 朗読家は、聞き手や観客に届けるために表現するのではなく、「語り手という他者の体験」を「自分の体験」として、ただ生きようとします。つまり、言葉が生まれる瞬間を生きるのです。したがって朗読家の音声は、「表現」ではなく、体験とともに自然に生まれる「表出」と捉えましょう。 アナウンサー、俳優・声優、朗読家。いずれも言葉と向き合う点では同じかもしれません。けれども、扱う言葉が異なるの
2025年11月5日


新しい朗読ー2つのステップ
「新しい朗読をやっていてよかった〜」というお言葉をたくさん頂戴して、ほっこりしております。文学作品を読むことが、虚構の作品世界を生きる体験になる──そんな文学体験の現場を皆さまとご一緒できて本当にうれしいです(^^) さて今日は、新しい朗読の実践ステップをもう一度たどってみましょう。 『新しい朗読ー語り手の体験を生きる読書法』で、まずは、谷川俊太郎さんの『やま』という詩をテキストにして、新しい朗読に取り組みましょう♪と提案しました。 この詩を数回読んで、自分なりに理解できたと思っても、そこでとどまらないのが「朗読者」です。この詩の語り手、つまりお兄さんを、仮に「やまおくん」と呼ぶことにしましょうか。名前をつけると、語り手を“ひとりの生きた存在”として感じやすくなります。 それでは、やまおくんに対する理解を深めて、作品世界(=やまおくんのいる虚構世界)に生きることを目指しましょう♪ やり方は簡単。次のステップ1とステップ2を往復するだけでしたね。 ■ステップ1:(言葉を手がかりに)体験ー身体・五感・脳ーを推察する(『新しい朗読ー語り手の体験を生きる
2025年10月28日
