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物語の朗読について【4連載・2回目】

更新日:5 日前


前回のブログでは、「文学作品にふさわしい朗読とは何か」を考えました。


文学作品(詩や小説)の語り手の言葉は、「虚構世界を立ち上げる言葉」であり、言葉と体験が一体となっている。だからこそ、私たち読者は、言葉を手がかりにして、語り手を追体験することが可能。体験に伴って表出する音声は、作品理解を深める手段となる。


以上のことを踏まえて、文学作品にふさわしいのは、「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」ではなく、それとはまったく異なる「新しい朗読(語り手の追体験を試みる体験行為)」であるという結論を導きました。


今回は、物語の朗読に光を当ててみます。

物語にふさわしい朗読とは、どのようなものなのか。


物語の語り手の言葉も、「虚構世界を立ち上げる言葉」ですから、「新しい朗読」がふさわしいといえますが、物語の語り手は、文学作品(詩や小説)の語り手よりも、「読者に近い存在」です。


この違いに着目して、「朗読とは表現ではなく体験行為である」という「新しい朗読」の立場から、物語にふさわしい朗読のあり方を考えます。



1.語り手と読者の距離


■文学作品:語り手は遠い他者


文学作品(詩や小説)、たとえば夏目漱石の『夢十夜』や芥川龍之介の作品などの語り手は、「他者」です。

私たち読者は、自分の靴を履いたままでは、とうてい理解が及びません。


語り手に近づくには、「試行錯誤しながら語り手の靴を探す過程」、「語り手の靴に履き慣れていく過程」が必要です。


この徐々に近づいていく過程にこそ、重要な意味があります。朗読者は、時間をかけて少しずつ、「語り手の認知回路(ものの見方や感じ方)」を自分の脳に組み込んでいくイメージです。


■物語:語り手は身近な存在


一方、『桃太郎』などの昔話や物語、娯楽小説などは、一度読んだだけで、虚構世界にすっと入っていけます。


物語の語り手は、その価値観も感覚も、読者と変わりません。まるで気心の知れた友人や身内のようです。わざわざ語り手の靴を見つけて履き替えなくても、自分の靴を履いたまま虚構世界を歩くことができます。


これは、朗読者が認知回路を増やさずとも、いま自分のままで、物語の語り手に接近できるということでしょう。

だからこそ、いまの自分が問題となるのですが…。



2.新しい朗読:文学作品の場合


● 聞き手:語り手に近づこうとする仲間

● 目的:他者である語り手を深く理解する・その過程で脳の認知回路は増える


■ 聞き手は受け身の観客ではない


文学作品の言葉は、読者一人ひとりが真摯に向き合い、時間をかけて読み深めていく種類の言葉であり、音声で受け取る種類のものではありません。


音声を聞くだけでは、語り手が立ち上げようとする虚構世界ではなく、自分勝手な虚構世界を生きてしまいがちです。そして、それにもかかわらず、作品を理解できたという誤解に陥ることが多々あります。これは、とても残念なことではないでしょうか。


このような理由で、聞き手は、語り手に近づく試みを共にする「仲間」に限定されます。


■ 表出する音声は、語り手に近づく手助けになる


朗読者は、「語り手の体験」を推察し、自分の身体と脳を使って追体験を試みます。


このとき表出する音声は、虚構世界を生きようとする仲間と共有されることで、共同体の話し合いを誘い、その結果、各自がより深く語り手を理解する手助けとなります。


■ 「新しい朗読」は、「体験を伴う読書行為」


仲間とともに、追体験の試行錯誤をたのしむうちに、私たちの脳は活性化し、新しい認知回路が少しずつ増えていきます。


いよいよ語り手に接近して、語り手の体験を他人事ではなく自分ごととして生きるとき、私たちは、虚構世界における「新しい体験」の機会を得ます。新しい体験は、私たちの脳の育てます。


私たちにとって、文学作品の朗読は、語り手という他者と深く能動的に関わることのできる読書行為であり、それは、かけがえのない学びの時間だといえるでしょう。


では、この「新しい朗読」は、物語の場合、どのような姿をとるのでしょうか。



3.新しい朗読: 物語の場合


● 聞き手:制限はない

● 目的:聞き手を虚構世界に誘う


■ だれもが聞き手になれる


文学作品の場合のように、聞き手は限定されません。

聞き手は、準備すること無しに、音声を聞くだけで、虚構世界を歩くことができます。


ただし、その音声というのは、「体験に伴う音声」です。「体験を伴わない音声」では、それがどんなに整った美しい音声であっても、聞き手は、虚構世界に入れないかもしれません。


■ 「表現する」のではなく、「体験に集中する」


物語にふさわしいのは、「従来の朗読(聞き手に届ける音声表現行為)」ではなく、「新しい朗読(語り手の追体験を試みる体験行為)」です。


聞き手に向かう意識は、朗読者の集中を妨げるとともに、その体験を歪めます。言葉にふさわしい音声から離れてしまいます。


たとえば、物語を「表現しよう」とすると、朗読者は出来事や感情を説明する方向へ引っ張られます。でも語り手にとっては、驚きや息づかいは説明されるものではなく、体験としてその場に立ち上がるものです。


語り手の体験を生きると、語り手の言葉は自ずと出現し、そのときには、もうすでにふさわしい音声が表出しています。


■ ふさわしい音声の表出


語り手が立ち止まり息を呑む瞬間が間となり、風の色を見つけた瞬間の目の輝きは、そのまま音声に反映されます。生々しい体験の感覚は、朗読者から表出する間や音声に自ずと宿ります。


朗読者は、語り手として、虚構世界を全身で全力で体験する。その体験そのものが、聞き手を虚構世界へと連れていく。

物語の朗読とは、そんなシンプルで、力強い行為なのでしょう。


■ 新しい朗読が、聞き手にも体験を促す体験行為となる


文学作品、物語ともに、「新しい朗読(語り手の追体験を試みる体験行為)」がふさわしいのですが、「新しい朗読」で得られるものに違いがあります。


  • 文学作品の朗読=「体験を共にする仲間・試行錯誤の面白さ・脳の成長」

  • 物語の朗読=「体験の気持ちよさ・聞き手を虚構世界へ誘う喜び」


物語の朗読には、語り手の靴を見つけるための試行錯誤も、履き慣れるまでの長い時間もさほど必要ありません。その分、文学作品の朗読ほど認知の刷新は期待できません。もちろんそれは価値の優劣ではなく質の違いです。


そのかわり、聞き手を虚構世界に誘うという心躍るような高揚感を得ることができるかもしれません。いまの自分の身体と脳を試される時間だともいえそうです。



4.物語の朗読者が心がけたいこと


文学作品も物語も、「新しい朗読」がふさわしい「虚構世界を立ち上げる言葉」の領域にあります。ただ、語り手と読者との距離が異なりました。


その結果、物語の朗読では「聞き手」が想定されます。そうなると、私たちは、どうしても聞き手を意識してしまいます。「従来の朗読」に引きずられるのは、ある意味、当然なのかもしれません。


しかし、言葉と体験は一致してこそ美しい。私たち朗読者は、「自らの体験」で「聞き手の体験」を促すことを目指しましょう。


そのために必要なのは、いくつになっても学び続けるマインドを持つこと。新しい体験を求めて文学作品(語り手が他者)を朗読すると、新しい認知回路を増やすことができます。


そして、どのような体験も受け取れるように、身体も心もしなやかに保ちましょう。 小さなことも全身で面白がって、日常を豊かに生きるーーそんな姿勢が、「新しい朗読」の土台になります。



5.まとめ


● 文学作品の朗読:他者である「語り手」を理解したいと願い、仲間とともに夢中になる時間。脳が育ち、心は満たされる。

● 物語の朗読:自らが「語り手」となり虚構世界を生きることを楽しみ、「聞き手」をその世界に誘う、胸弾むワクワクする時間。


文学作品で新しい体験に挑み、物語でその体験を軽やかに羽ばたかせる。この往復こそが、私たちの世界を広げてくれます。

さあ、ご一緒に虚構世界を歩きましょう。



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