私がととのう読書時間ー朗読という読書法の魅力ー〈3〉
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更新日:12 時間前

「文学作品」とは何か。それを対象とする「朗読」とは何か。
問いと確認を繰り返しながら、朗読を、「文学作品の奥深さをていねいに味わう読書行為」として再発見してきました。この試みも最終回です。
連載をここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
四半世紀にわたり朗読の存在意義を考え続けるうちに、朗読は、「文学作品を幸せに享受するための読書法」なのだと確信するようになりました。「朗読」と「音声表現(朗読劇や語り)」は、異なる領域に属する行為だと、しなやかにお伝えできるようにもなってきました。
私がいま生きているのは、「朗読教室」の講師を始めた頃には想像もしていなかった世界ーーなんとも面白い、そして、なんとも愛おしい世界です。
いっしょに朗読の道を歩いてくださる皆さま、応援してくださる皆さまのおかげで、こんなにも豊かな景色と出逢えました。心より感謝申し上げます。
■ 2001年、「朗読教室」の講師を引き受ける
当時は、私自身も、朗読とは「声を出して読む行為」であり「音声表現」であるといったイメージを鵜呑みにしていました。
でも、朗読が対象とする「文学作品」を、まるでアナウンス原稿やナレーション原稿、あるいは上演台本のように扱うことになってしまう「構造」に、次第に違和感を覚えるようになりました。
文学と共にある朗読の存在意義って何だろう?
まず、文学について学ぼう。そのうえで朗読について研究しよう。
そんな思いで2011年に社会人入学した愛知淑徳大学大学院 文化創造研究科で、貴重な学びを得ることができました。その一つが、「語り手」という文学概念です。
作者は、なぜ自ら語ることをせずに、虚構世界を生きる「語り手」を設定し、その語り手に語らせるのだろう?
この答えが見つかってから、文学の言葉とぐっと仲良くなれたように思います。
2013年には、「朗読とは、自分の読みを朗(あきら)かにする読書行為である」と修士論文にまとめることができました。
■ 朗読の本質をどう共有するか?
その後は、朗読教室や『文学賞味会』と名付けたイベントで、「語り手」に注目することの大切さを伝えようと努めました。ところが「朗読=音声表現」のイメージがあまりにも強く、なかなか前には進みませんでした。
「朗読は音声表現ではない」と話しても、聞く耳を持たれなかったり、いつの間にか「音声表現」に回収されていたり…。
そんなもどかしい日々が続いていた2020年、コロナ禍で全てのカルチャーレッスンがストップしました。このとき、あらためて、朗読という行為の本質を考えました。
朗読教室の皆さまと会えないつらい期間でしたが、思考を深めるには、とても大事な時間だったと思います。
再開したレッスンでは、「読み上げ行為」とはまるで異なる「朗読」を、皆で共有するにはどうすればいいか、探るようになりました。その試行錯誤のすべてが、2025年の夏に出版した拙著『新しい朗読ー語り手の体験を生きる読書法』に繋がっています。
■ 『新しい朗読ー語り手の体験を生きる読書法』から、さらに先へ
『新しい朗読ー語り手の体験を生きる読書法』という本は、詩や短編小説を対象とした朗読についてまとめたものです。
同年秋になると、「エッセイや物語の朗読についても、しっかり考察しておきたい」と考えるようになりました。(12月にブログ記事をアップロードしたので、ご興味があればお読みください)
この作業で、思いがけない嬉しい収穫がありました。読書領域・上演領域という言葉が生まれてきてくれたのです。読書領域とは、読書そのものの領域。上演領域とは、観客に向けた上演行為が属する領域を指します。
■ 上演領域に「朗読」は存在しない
上演領域や、そこに属する音声表現行為を否定しているわけではありません。朗読劇も、読み語りも、語りも、上演領域で輝いています。あくまでも、「文字言語だけで虚構世界が立ち上がる構造を持つ文学作品」を対象とする「朗読」という行為と、「上演領域」の相性の問題です。
文学作品の語り手の言葉は、すでに体験を内包しています。この「認知そのものと考えられる言葉」を上演領域に持ち込み、観客に届ける「伝達の言葉」として扱おうとするならば、言葉と体験の調和はどうしても乱れてしまいます。
言葉と体験の不調和そのものが問題なのではありません。
「不調和に気づかないまま表現を重ねる」ことを促してしまう構造にこそ、問題があるのでしょう。 無自覚のままに、言葉と体験の不調和を受け入れ続けることが、認知にどのような影響を与えてしまうのか、私たちは考えてみてもいいのかもしれません。
読書領域には「朗読」、そして、上演領域には「音声表現」ーーこの明確な整理が、いま、待たれているのではないでしょうか。
■ 「朗読」は、言葉と体験の調和を目指す
朗読は、「語り手の言葉」と「(読者である)自分の体験」の調和を目指す営みです。
朗読者は、「語り手の体験と自分の体験はズレている」という事実に気づくところを起点とし、当たり前に生じたそのズレを少しずつ縮めていきます。言葉と体験は、自然に調和へと向かっていきます。
読書領域には、わかったことにして終わらせてしまう「解釈」も、受け取ることより届けることを優先してしまう「表現」もありません。そこにあるのは、「自由な試行錯誤」と「理解の深化」です。
ときには一人で、ときには皆で、仮説と検証の往還を愉しんでいるうちに、いつの間にか、脳はふかふかに耕され、少しずつ新しい回路が芽生え、そして心は満ちていきます。
よく、仕事が忙しくて本を読む時間がないという声を聞きます。でも、余裕がないときこそ、詩や短編小説の朗読をおすすめします。
言葉と体験が調和へと向かう時間は、自分自身が静かにととのっていく時間なのでしょう。
虚構世界から現実世界に戻ったとき、穏やかに仕事をこなせている「新しい自分」に出会えるかもしれません。
■ 脳の成長
朗読という営みで、じわじわと語り手に近づいていくと、いつもの認知回路とは異なる回路を使っている感覚があります。脳内には、新たな回路が少しずつ敷設されているのでしょう。
いよいよ語り手に接近し、作品世界を自分ごととして生きるようになると、語り手にとっての「新しい体験」は、読者にとっても「新しい体験」となります。
いくつになっても、脳は、新たな体験を悦びながらおおらかに成長を続けている。このように考えると、日々の心のありようも変わってくることでしょう。
■ まとめ
「わからないことをわかっていないと、わからないことはわかりません。」
テレビドラマ『テミスの不確かな法廷』で、主人公の裁判官が何度も語っていた言葉です。とても印象に残りました。
私たちは、安易に、知ったつもり、わかったつもりになりがちです。そんな気配を感じたとき、「朗読」という読書法を試してはいかがでしょうか。
朗読を通して語り手に近づく過程で、「わからないとわかる」ことがどんどん増えていきます。でも、大丈夫。それを面白がっているうちに、いろいろなことが形を変えながら少しずつ腑に落ちるようになってきます。
文学の豊かさをたっぷりと受け取る朗読は、「学ぶ愉しさ」と「新しい自分に出逢う悦び」を私たちにプレゼントしてくれます。
あなたもどうぞご一緒ください。この新しい読書法に慣れるまで、サロンドマリコがそっと伴走します。虚構世界の旅を、のんびりと愉しんでまいりましょう。
□ コラム① 小説誕生以降の文学作品と朗読
明治時代、小説という形式の誕生によって文学は大きく変わりましたが、おそらく、朗読は、「読み上げる行為」のまま留まりました。その結果、文学の変容に対応するのが難しくなり、読書行為の中心は、次第に「黙読」に移っていったと考えられます。
当時の朗読は、いまの「音読」のように「文章を読み上げる行為」としてのみ捉えられていたのでしょうか。それとも、「読書行為」として捉えられていたのでしょうか。
おそらく、はっきりと定義されることのないままに「読み上げる行為」として留まり、やがて「表現する喜び」の受け皿となっていったのでしょう。
そして、「朗読は音声表現」というイメージが形成され、現在に至ってしまいました。
しかし、文学作品を対象とする以上、朗読は読書行為です。「読書行為」として捉え直す試みは、避けて通れないのかもしれません。
朗読のありようは、「読み上げる行為」から「語り手の体験に接近しようとする行為」へと変容することで、はじめて、「小説誕生以降の文学作品にふさわしい読書行為」として、その存在意義を発揮することができるのではないでしょうか。
□ コラム② スッと進まない。それでいい。それがいい。
「そうは言っても、朗読って声に出して読む行為よね」「結局、朗読は音声表現だ」といった、これまで慣れ親しんできたイメージへと、また引き戻されていませんか?
この「戻り」を失敗として扱わないようにしましょう。
「朗読は音声表現だ」という引き戻しが起きたときに、「あ、上演領域にいる」と気づく。
この気づきそのものが、新しい枠組みの働き始めているサインです。
この連載では、「新しい枠組み」を提案しています。引き戻しがあることも織り込み済みです。
スッと進まなくてもいい。スッと進まないのがいい。
その揺れも含めて、皆でおおいに愉しんでいきましょう。




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