私がととのう読書時間ー朗読という読書法の魅力ー〈1〉
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更新日:11 時間前

「ほんとはこんなに豊かなんだ…。読めてると思ってたけど、わたし、読めてなかった。」
文学作品の世界を「自分ごと」として生きるとき、私たちは、その奥深さに包まれながら、「浅い読み方をしていた過去の自分」に気づくのかもしれません。
読者の私たちを変える可能性を持っているのが「文学作品」であり、その可能性を開くのが、作品世界を自分ごととして生きようとする「朗読」という読書法です。
これから、朗読とはどのような行為なのかをみていきましょう。「朗読は声に出して読む行為」「朗読は音声表現」というイメージは、いったん脇に置いておきます。
■ 朗読が存在するのは、上演領域か?それとも読書領域か?
この連載では、「文字言語だけで虚構世界が立ち上がる構造」を持つ文学作品を、朗読の対象とします。
さて、朗読は、音声を伴う行為です。
この「音声を伴う」ということから、私たちは自然に上演領域(音声を届ける行為の場)を思い浮かべ、「上演領域に朗読」という配置を、当たり前のものとして受け入れてしまいます。
しかし、観客を想定する「上演領域」に「朗読」を配置するのは、本当に適切なのでしょうか?
虚構世界の立ち上げに「音声による表現」を必要としない文学作品を、「音声表現を扱う上演領域」に置くのは、じつは無理があるのでしょう。
文学作品が読書領域に属する以上、それを対象とする朗読も、同じく読書領域に配置するのが自然なのかもしれません。
■ 朗読をどう定義するか?
【朗読とは、(文学作品の)語り手の体験と同じ体験を“試みる行為”である】
文字言語だけで虚構世界を立ち上げようとする「語り手の言葉」は、すでに体験を内包しています。このことに注目して朗読を定義すると、「朗読」は、「体験と言葉の調和」を目指す営みとして、音声を伴いながら「読書領域」で成立します。
⚫︎ 朗読って、わかりやすく言葉を伝える行為ではないの?
⚫︎ 朗読って、感情を込めて作品を届ける行為ではないの?
最初は、このような戸惑いがあるかもしれません。
しかし、「創意工夫して読み上げる行為」も「解釈を音声に反映させた行為」も、上演領域に属する「表現」と呼ばれるものです。
読書領域に属する「朗読」とは異なる行為だと考えるのが妥当でしょう。
表現の対象となるのは、すでに語り手の体験(音声を含む)を内包している文学作品ではなく、上演者の体験(音声を含む)を待っている「上演を前提としたテキスト」なのではないでしょうか。
■ 朗読の音声とは?:虚構体験に伴って表出する身体反応
朗読(語り手の体験と同じ体験を試みる行為)の過程で、音声は、言葉の生成に付随して自然に出ます。上演領域における音声表現のように、「意図して声を出す」わけではありません。
朗読の音声は、虚構世界を生きようとする体験に伴う「さまざまな身体の反応」、たとえば、身体の緊張や緩み、眼差しのありようなどを映し出します。
■ 朗読の音声とは?:朗読者の虚構体験を他の読者に開く
これまでみてきたように、朗読の音声は、虚構体験と直結しています。
ですから朗読者は、自らの虚構体験(どのように虚構世界を生きているのか)を、音声を通して聞き手に開くことになります。
ここでいう聞き手とは、音声を「表現されたもの」として受け取る「上演領域における観客」ではなく、自ら虚構の作品世界を生きようとする「読書領域の仲間」です。
読書領域の仲間は、(自らの虚構体験がどのように揺さぶられるのかを観察しながら)各々が生きる虚構空間を響き合わせるように聞きます。
そのとき朗読の音声は、仲間の虚構体験に身体ごと触れ、自らの虚構体験を問い直す手がかりとなります。
だからこそ朗読は、一人の読書では到達できない作品受容の深みへと、私たちを導く可能性を持つのでしょう。
■ 朗読の音声を共有する場
朗読の音声を共有する場は、「思いがけない気づき」が生まれる場だなと感じます。仲間が抱いた小さな違和感も、豊かな話し合いのきっかけとなります。率直に言葉を交わし合うことで、語り手との距離はさらに縮まるかもしれません。
朗読という「体験と言葉の調和」を目指す営みの中で、貴重な役割を果たすのが「朗読の音声」です。
■ まとめ
朗読は、文字言語が内包する「語り手の体験」を、ゆっくりと時間をかけて「自分の体験」にしていく試みです。
頭だけではなく、身体と感覚も使い、個人ではなく、共同体で取り組みます。
目の前に並ぶ言葉を解釈してわかったことにしてしまうのではなく、そこを出発点にして、仲間と言葉を交わし合いながら、語り手の「言葉の生成」に立ち会っていくーー
「朗読」とは、文学作品の幸せな受け取り方を、愉しく探究し続ける「読書行為」だといえるでしょう。




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