

読書領域の朗読:たとえば丁寧に観察する
☆2024年ブログの2026年バージョンです。 いつもブログをお読みくださってありがとうございます。今日も「朗読de脳育」愉しんでいらっしゃいますか♪ さて。わたしたち朗読者は、言葉が生まれる際の五感の働き・脳の働き・身体のありようを ていねいに探り 、〈語り手〉や発話者(登場人物)に対する理解を少しずつ深めていって、同じ体験を試みます。(←『新しい朗読ー語り手の体験を生きる読書法』p34・37) それは、文学作品(詩や小説)の言葉、すなわち、〈語り手〉によって語られた言葉が内包している音声と出会いたいから。そして、 虚構世界を、語り手とともに生きたいから です。 ■ ちいさな、ちいさな、りすでした。 たとえば、森絵都さんの作品『こりす物語』の冒頭部分をみてみましょうか。〈語り手〉は次のように語っています。 ちいさな、ちいさな、りすでした。 音声表現するひと(=声を与えようとするひと) は、観察と推察に時間をかけず、(わかったわ。この〈語り手〉は、りすがちいさいことを強調したいのね)と 解釈 して、その 解釈を音声表現に反映 させようとしがち…で
4 日前


上演領域の読み語り/読書領域の朗読:陸上と水中の違い
[朗読の整理] ①従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)を上演領域に戻し「読み語り」と呼ぶ ②読書領域には新しい朗読(語り手の追体験を試みる体験行為)を「朗読」として据える 上演領域は陸上、読書領域は水中、そんなイメージです。 ■ 優劣の問題ではなく、環境の違い 「読み語り」と「朗読」は、比べるものではありません。前提となる環境そのものが違うからです。 陸上では、誰もが当たり前のように歩きます。 ですから、「歩幅」「歩く速さ」「歩くフォーム」など、さまざまな歩く技術が、最初から語られても、さほど違和感はありません。 でも、水中では、そうはいきません。 じつは、 誰だって水中で浮きます。 でも、歩くことがすべてだと思っていると、浮くことが難しくなります。 水中でも歩こうとするからです。 もちろん、水中ではうまく歩けません。そして、 「歩こう」という意識のままでは、浮きません。 まず、浮くこと。それがすべてです。 浮くためには、歩こうとしないことです。 「力を抜くこと」を覚え、「沈まない」と知ることです。 ■ つべこべ言わずにやる...
1月6日


新しい朗読:読書領域の学びと体験
〜読書と朗読が繋がることを願って〜 長い間、朗読は、「声の技術」や「表現の巧拙」で評価される、いわば上演領域のものとして捉えられてきました。 しかし、文学作品を味わう読書領域における朗読は、音声の在り方も価値も、まったく別の座標軸の上にあります。 ここで行いたいのは、 読書領域と上演領域の区分を使い、いま「朗読」と呼ばれている行為を整理する ことです。 上演領域で行われる「読み語り」は、上演台本を創意工夫して音読する(読み上げる)表現行為。読書領域で行われる「朗読」は、文学体験を目指す体験行為。このような整理を提案します。 1.「読み語り」(上演領域)とは何か 上演領域で行われる「読み語り」は、文字や文章を、声に乗せて 聞き手に届ける表現行為 です。 ■ 声を出す。間や声色、感情表現など、創意工夫が中心 ■ 聞き手の感動や、聞き手とのコミュニケーションが目的 ■ 上演を前提に創作された台本を扱う ■ 読書領域における詩や小説・物語・エッセイも、上演台本とみなされる この領域では、表現者の技術や表現力が価値を持ちます。 2.「朗読」(読書領域)と
1月4日


「朗読」を、読書領域に:表現の座標を離れるということ
(この記事は、前回のブログ「朗読の地図」とあわせてお読みいただけるとうれしいです) たしかに長い間、朗読は「声の技術」として捉えられ、「表現の巧拙」が評価されてきました。 そのような土壌があるからでしょう。読書領域の朗読(サロンドマリコの「新しい朗読」)について語っても、多くの人が「従来の朗読(表現としての朗読)」を基準点に置き、そこからの 「差分」で解釈 しようとします。 それは無理もないことですが、そのままでは、本質に近づくことが難しくなります。 なぜなら、サロンドマリコの「朗読の地図」における従来の朗読は、読書領域の朗読とは全く別の座標軸を持つ「上演領域」に存在するからです。 それでは、「読書領域の朗読」を、サロンドマリコがどう捉えているのか。ここではそれを示します。 1.「声」は結果であって目的ではない 従来の朗読観に引きずられると、「声をどう出すか」という出口から逆算してしまいます。しかし、読書領域の朗読は、自らの身体と脳を使って「語り手」の追体験を試みるーーその行為のプロセスそのものです。 言葉が自然に生まれるときに、「声」はただつい
1月1日


「従来の朗読」から「新しい朗読」へ【4連載・最終回】
「新しい朗読」について考えてきた連載も、これが最終回です。 これまでみてきたように、文学作品や物語、そしてエッセイにふさわしいのは、「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」ではなく、「新しい朗読(語り手の追体験を試みる体験行為)」でした。 もちろん「従来の朗読」を否定するわけではなく、文学作品や物語、エッセイなどの読書領域では「新しい朗読」。アナウンス領域やナレーション領域、音声で観客に届けることを前提に用意された文章などの上演領域に関しては、「従来の朗読」。このように 棲み分け が必要だということです。 読書領域において、私たちは、「従来の朗読」から「新しい朗読」へとシフトしていけるといいですね。 どうしても「従来の朗読」のイメージが強く根づいているため、「声を出すのではなく、声は出る」「聞き手を意識しない」といった「新しい朗読」の考え方には、誰もが戸惑いを覚えるかもしれません。私自身がそうでした。 焦ることなくのんびりと、皆で一緒に進んでまいりましょう♪ 1.朗読者の立場から ■ 声を出すのではなく、声は出る 経験者ほど、これまでの「表現
2025年12月18日


エッセイの朗読について【4連載・3回目】
私たちが読む文章には、大きく分けて二つの種類があります。 ひとつは、読者や聞き手に届けるための 「伝達の言葉」 で綴られた文章。 もうひとつは、読者や聞き手を虚構世界に誘うための 「虚構世界を立ち上げる言葉」 で綴られた文章。 前回、前々回のブログで、後者に当たる文学作品(詩や小説)や物語にふさわしいのは、「新しい朗読(語り手の追体験を試みる体験行為)」であることを示しました。 今回は、エッセイの朗読について考えます。 エッセイの言葉は、「伝達の言葉」なのでしょうか。それとも、「虚構世界を立ち上げる言葉」なのでしょうか。 「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」と「新しい朗読」、いったいどちらの朗読がふさわしいのでしょうか。 本稿では、エッセイの言葉を「伝達の言葉」と位置づけつつも、朗読としては「新しい朗読」がふさわしいことをみていきます。 1.エッセイの言葉とは? エッセイは、作者が伝えたい体験や思考などを読者に届けるから、「伝達の言葉」だと思う。けれど、エッセイの中には、知らない世界が広がっている。それは、読者にとっては、知っている現実世
2025年12月13日


物語の朗読について【4連載・2回目】
前回のブログでは、「文学作品にふさわしい朗読とは何か」を考えました。 文学作品(詩や小説)の語り手の言葉は、 「虚構世界を立ち上げる言葉」 であり、言葉と体験が一体となっている。だからこそ、私たち読者は、 言葉を手がかりにして、語り手を追体験することが可能。 体験に伴って表出する音声は、作品理解を深める 手段 となる。 以上のことを踏まえて、文学作品にふさわしいのは、「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」ではなく、それとはまったく異なる 「新しい朗読(語り手の追体験を試みる体験行為)」 であるという結論を導きました。 今回は、物語の朗読に光を当ててみます。 物語にふさわしい朗読とは、どのようなものなのか。 物語の語り手の言葉も、「虚構世界を立ち上げる言葉」ですから、「新しい朗読」がふさわしいといえますが、物語の語り手は、文学作品(詩や小説)の語り手よりも、「読者に近い存在」です。 この違いに着目して、「朗読とは表現ではなく体験行為である」という「新しい朗読」の立場から、物語にふさわしい朗読のあり方を考えます。 1.語り手と読者の距離 ■文学
2025年12月13日


新しい朗読ー文学作品の朗読を再定義する【4連載・1回目】
文学作品を深く味わうための読書法を、「新しい朗読」と名付けました。読書行為に音声を伴うので、黙読ではなく「朗読」。従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)ではないので、「新しい朗読」です。 「朗読」の本質を、「体験を伴う読書行為」として捉え直したい と考えています。 第1章 文章と朗読には相性がある 私たちが読む文章には、大きく分けて二つの種類があります。 ひとつは、 読者や聞き手に内容を届けるための「伝達の言葉」 で綴られ、もうひとつは、 読者や聞き手を虚構世界に誘うための「虚構世界を立ち上げる言葉」 で綴られます。 どちらの言葉も、「言葉」であることに変わりはありませんが、その性質は大きく異なります。 そして、この違いは「どのような朗読がふさわしいか」という問題にも深く関わっています。 ■ 伝達の言葉と従来の朗読 まず、「伝達の言葉」について考えてみましょう。 伝達の言葉は、相手に出来事やその雰囲気、思考などを届けることを目的とする言葉です。 相手が聞き手である場合には、届けたい内容が伝わりやすいように、抑揚をつけたり、間や声の強弱・スピード
2025年12月8日


新しい朗読ー朗読家って?
名古屋西高校での授業の際、「朗読家って初めて知りました!」という生徒の声に、私も思わず「たしかに!」と頷きました。 「朗読家」という仕事、日常であまり耳にしないかもしれませんね。今日は、あらためて「朗読家とは何か」を考えてみたいと思います。 ■ アナウンサー、俳優や声優、朗読家の比較 アナウンサー :伝達者/アナウンス原稿を読み上げ、聞き手に「わかりやすく伝える」ことを目指す 俳優や声優 :表現者/台本の台詞を表現し、観客に「作品を魅力的に届ける」ことを目指す ーーーーーーーーーーーーーーー 朗読家 :体験する読者/文学作品の語り手を追体験し、「作品世界を生きる」ことを目指す 朗読家は、聞き手や観客に届けるために表現するのではなく、「語り手という他者の体験」を「自分の体験」として、ただ生きようとします。つまり、言葉が生まれる瞬間を生きるのです。したがって朗読家の音声は、「表現」ではなく、体験とともに自然に生まれる「表出」と捉えましょう。 アナウンサー、俳優・声優、朗読家。いずれも言葉と向き合う点では同じかもしれません。けれども、扱う言葉が異なるの
2025年11月5日


新しい朗読ー2つのステップ
「新しい朗読をやっていてよかった〜」というお言葉をたくさん頂戴して、ほっこりしております。文学作品を読むことが、虚構の作品世界を生きる体験になる──そんな文学体験の現場を皆さまとご一緒できて本当にうれしいです(^^) さて今日は、新しい朗読の実践ステップをもう一度たどってみましょう。 『新しい朗読ー語り手の体験を生きる読書法』で、まずは、谷川俊太郎さんの『やま』という詩をテキストにして、新しい朗読に取り組みましょう♪と提案しました。 この詩を数回読んで、自分なりに理解できたと思っても、そこでとどまらないのが「朗読者」です。この詩の語り手、つまりお兄さんを、仮に「やまおくん」と呼ぶことにしましょうか。名前をつけると、語り手を“ひとりの生きた存在”として感じやすくなります。 それでは、やまおくんに対する理解を深めて、作品世界(=やまおくんのいる虚構世界)に生きることを目指しましょう♪ やり方は簡単。次のステップ1とステップ2を往復するだけでしたね。 ■ステップ1:(言葉を手がかりに)体験ー身体・五感・脳ーを推察する(『新しい朗読ー語り手の体験を生きる
2025年10月28日


新しい朗読ー「語り手の言葉なんだ!」と何度でも思いましょう♪
わたしたちが朗読教室で取り上げる詩や短編小説は、「文学作品」とよぶにふさわしい奥深いものです。 その作品世界は、唯一無二の語り手の言葉によってーーなんと言葉だけで!ーーわたしたちの右脳に立ち現れてきます。 わたしたちが朗読する言葉は、アナウンス原稿に並ぶ伝達の言葉とは異質のものです。左脳で処理するにとどまらず、右脳を使って「語り手の身体のありようや五感・脳のはたらき」を感じとりましょう(←ステップ1)。そして、「語り手と同じ身体のありよう」をして、自らの五感と脳を「語り手と同じように」と意識してはたらかせてみましょう(←ステップ2)♪ いつもこのようにお話ししています。しかし、ときに、ステップ1・ステップ2に取り組むことなく、つい、自分の思い込みの中で、方向の違う取り組みを続けてしまうことがあります。 「どんな表現が適切かしら?」「どのような声を出そうか?」「きっとこういう声がふさわしい!」「このように表現するのがぴったりなのでは…」といったような従来通りの思考に囚われているのかもしれません。 このような考えが浮かんだら、「あ、違った!これは語り
2025年10月25日


新しい朗読ー文学作品を読むということー
多くの人の前で朗読する際には、どうしても聞いている人を意識してしまいますよね。 朗読を伝達行為と捉えると、うまく読めているか、声は聞き取りやすいか、間違えないか。そのようなことが気になります。 ここで少し、朗読と文章の関係について考えてみましょう。朗読と文章は切り離せません。文章の種類によって、朗読のありようも変わると考えるのが自然ではないでしょうか。 アナウンス原稿のような文章の朗読は、まさしく伝達行為だと考えられます。では、フィクションはどうでしょう?アナウンス原稿の朗読と同じような伝達行為なのでしょうか? たとえば物語。一度読めば理解できるわかりやすい文章は、 音声でも手渡すことができそうです。 音声のほうが豊かに届く場合も多々あると思います。でも、伝達行為という言葉ではしっくりきません。 物語の朗読ーーいわゆる「読み聞かせ」をする際には、「私がわかりやすく伝える」「私が魅力的に表現する」というより、「私はただ作品世界を生きる。そうすることで、聞き手もまた作品世界を生きることができるんだ」 といった心持ちで、体験をたのしむのがいいのだろうと
2025年10月10日


ありがとうございました!
神保町の胸弾む本屋さんーブックハウスカフェさんで、出版記念イベントを無事に楽しく開催することができました(^^) ご参加くださった皆さま、そして、お力を貸してくださったすべての皆さま、こころよりありがとうございました! お茶会☕️では、懐かしい皆さまともゆっくりお話しできて...
2025年9月18日


『新しい朗読ー語り手の体験を生きる読書法』について、たくさんのご感想をありがとうございます!
『新しい朗読ー語り手の体験を生きる読書法』について、多くのご感想を頂戴しています。心より感謝申し上げます。いくつか抜粋してご紹介させていただきます。 この度はご出版おめでとうございます。新しい朗読の定義を明確にし、わかりやすくまとめられた本を手にして感無量です。...
2025年9月2日


ブックハウスカフェさんでの特別なイベントです♪
残暑お見舞い申し上げます✨ 皆さま、お元気にお過ごしでしょうか? 今日は、9月17日(水)の嬉しい東京イベントをご案内します♪ 神保町のブックハウスカフェさんで、宮沢賢治の『いちょうの実』を朗読します(^^♪ ステキな空間で、賢治の豊かな作品世界をぜひご一緒ください☆...
2025年8月28日


新しい朗読のこと
新しい朗読は、語り手と同じ体験を試みて、作品世界を自ら生きようとする読書法です。 「語り手」の生きる世界が、目で読んでわからない。声を出して読んでみてもわからない。だったら、同じ体験をしてみよう♪ 自分の身体と五感と脳を、語り手と同じように使って、同じ体験を試みてみよう!という感じです。(…同じことをしたら何かわかるかもしれない!) 実際にやってみると、言葉が、音声を伴って自然に生まれます。 私たちは、用意された言葉に音声を与えるのではなく、言葉が生まれるーーその一瞬一瞬を生きます。 この朗読を続けていくと、「あ、以前より文学作品を豊かに味わってる♡」と気づく時が訪れます。大人になっても脳は育つのですね。 ーいつからでも、いくつになっても、人は学び、成長できるー 新しい朗読は、そう確信させてくれる幸せな読書法なのです(^^♪ ☆新しい朗読について4連載しています ↓ https://www.salon-de-mariko.com/post/%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E6%9C%97%E8%AA%AD%E3%83%
2025年8月22日


文学を読むとは、「虚構世界を体験する」こと──再定義される朗読
文学作品は、「いまの脳で表現」するものなのでしょうか? 多くの人が、「朗読とは、いまの自分の脳で音声表現する行為」だと思っているようです。 あなたもそう思っていますか? でも、「いまの脳で表現できるもの」もあれば、「できないもの」もあり、「そもそも表現に向かないもの」もあり...
2025年8月14日


虚構世界に誘っちゃいましょう♪
「聞いている人に音声を届けたいという思いがあります」と、先日のレッスンでSさまが話してくださいました。 思いを言葉にして伝えてくださり、とてもうれしいです。 『新しい朗読』では、音声は(皆で)語り手に近づくための手段です。私たちは音声を目的にしません。しかし、Sさまの「音声を届けたい」という気持ちも理解できます。その思いを踏まえ、どのようなご提案ができるかを考えてみました。 「聞いている人に届けたいという思い」は、朗読者の意識を聞き手に向けてしまいます。すると、『新しい朗読』の本質である「語り手の体験をなぞる」ことに集中できなくなります。その結果、言葉と音声にズレが生まれます。 集中せずとも、自然に語り手と同じ体験ができるようになれば、言葉と音声にズレは生じません。とはいえ、音声で届きにくい文学作品を、あえて音声で聞き手に届けようとすると、どうしても作品の本質は損なわれてしまうでしょう。 それならば、音声で聞き手に届くことを前提に作られた作品を選ぶといいですね。 それに、音声で届く作品、例えば、読み聞かせ用につくられた物語の語り手は、(文字でしか
2025年8月13日


文学作品を朗読するときは、音声を目的にしないことが大切♪
『新しい朗読』における音声は、「表現」した結果ではありません。ここでいう表現とは、『解釈』を音声に反映させる行為のこと。 私たち一般の読者にとって、優れた文学作品は、『解釈』するより『理解』を目指すものではないでしょうか。...
2025年8月11日


「目を閉じていてもいい?」ーご質問ありがとうございます♡
先日のレッスンで、Uさまが次のような質問をしてくださいました。 「朗読するとき、目は閉じていてもいいんでしょうか?」 「もちろんいいですよ♪」とお答えしました。 そしていつものように、音声からUさまの体験に触れようとしたのですが、その体験の気配が…どうにも感じられないのです...
2025年8月1日
