エッセイの朗読について【4連載・3回目】
- marikoroudoku
- 2025年12月13日
- 読了時間: 6分
更新日:2025年12月21日

私たちが読む文章には、大きく分けて二つの種類があります。
ひとつは、読者や聞き手に届けるための「伝達の言葉」で綴られた文章。
もうひとつは、読者や聞き手を虚構世界に誘うための「虚構世界を立ち上げる言葉」で綴られた文章。
前回、前々回のブログで、後者に当たる文学作品(詩や小説)や物語にふさわしいのは、「新しい朗読(語り手の追体験を試みる体験行為)」であることを示しました。
今回は、エッセイの朗読について考えます。
エッセイの言葉は、「伝達の言葉」なのでしょうか。それとも、「虚構世界を立ち上げる言葉」なのでしょうか。
「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」と「新しい朗読」、いったいどちらの朗読がふさわしいのでしょうか。
本稿では、エッセイの言葉を「伝達の言葉」と位置づけつつも、朗読としては「新しい朗読」がふさわしいことをみていきます。
1.エッセイの言葉とは?
エッセイは、作者が伝えたい体験や思考などを読者に届けるから、「伝達の言葉」だと思う。けれど、エッセイの中には、知らない世界が広がっている。それは、読者にとっては、知っている現実世界ではなく、まるで虚構世界のようなもの。だから、ひょっとすると、「虚構世界を立ち上げる言葉」に入るのかもしれない。
どちらにも思えてきますが、はたしてどちらなのでしょう?
■ 「語り手=作者」であることの限界
物語や文学作品(詩や小説)の語り手は、「体験を生きる人」でしたが、エッセイの語り手は、体験を生きるのではなく、「体験を編集して語る人」です。読者に伝えることを意識して、言葉を選び組み立てています。
つまり、エッセイの言葉は、体験に伴って「自然に生まれる言葉」ではなく、読者に差し出すために「整えられた表現の言葉」。語り手の「いま・ここ」の体験とは、いったん切り離されて、読者を意識したうえで、あらためて繋がれた言葉です。
このように、言葉が身体的体験とダイレクトに結びついていない以上、語り手(作者)の体験を想像することはできても、その想像が的確かどうかを、読者は検証することはできません。
したがって、「語り手(作者)独自の世界」は、読者と共有できるものとして立ち上がらず、「虚構世界を立ち上げる言葉」の中には入らないことがわかります。
エッセイの言葉は、作者の伝えたいことーー作者自身の体験や思考などを、読者に届けるための「伝達の言葉」と捉えるのが妥当なのでしょう。
2.エッセイにふさわしい朗読は?
エッセイの言葉が「伝達の言葉」ならば、伝達の言葉と相性の良い「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」がふさわしいのでしょうか?
エッセイの言葉は、語り手(作者)の「伝達の言葉」です。作者=朗読者であるならば、たしかに「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」がふさわしいといえます。
ところがたいていの場合、朗読者は作者ではありません。語り手である作者と、朗読者の関係。これは、大きな問題なのかもしれません。
■ 語り手の違い:アナウンス原稿/エッセイ
エッセイの言葉は、たしかに「伝達の言葉」ですが、アナウンス原稿の言葉と同じように「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」として扱えるのでしょうか?
それぞれの語り手を比較してみます。
● アナウンス原稿の語り手:特定の個人ではなく、誰もが語り手となれる。解釈の余地が生まれづらい言葉で語る。➡︎読者一人ひとりにそれぞれの解釈は生まれない。➡︎誰でも語り手になれる。
●エッセイの語り手:作者本人。読者にとって、他者。作者それぞれに個性的な言葉で語る。 ➡︎ 読者一人ひとり解釈が異なる。
アナウンス原稿とエッセイ、それぞれにふさわしい朗読はどのようなものでしょうか。
■ アナウンス原稿の朗読
読者に解釈の余地は生まれません。したがって、誰もが語り手になれます。
朗読者は語り手となって、聞き手に言葉を届けることができます。したがって、ふさわしいのは、「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」です。
一番大事なことは、聞き手に、情報が正確に届くこと。音声表現のお手本が存在します。お手本に倣って、イントネーションや間の取り方・緩急のつけ方などに気をつけます。
声も滑舌も良いにこしたことはありません。
■ エッセイの朗読
エッセイでは、「新しい朗読(語り手の追体験を試みる体験行為)」の結果、読者一人ひとりに異なる解釈が生まれます。
文学作品の場合、[言葉と繋がる「いま・ここ」の体験]を試みることができますが、エッセイの場合は、[読者を意識して編集した体験]を試みることになります。
これでは、語り手との対話が閉ざされてしまうので、体験の試行錯誤から理解を深めることはできず、解釈せざるを得ません。つまり、自分なりにわかったことにするわけです。
これは、エッセイ朗読の限界に他ならないのですが、同時に、大きな魅力でもあると思います。
ここで、「従来の朗読」と「新しい朗読」をあらためて比較してみましょう。
● 従来の朗読:音声表現行為
① 聞き手を意識する
② 声を、出す:抑揚や間・緩急、発声の仕方を工夫する
③ 声の魅力や表現力が重視される
● 新しい朗読:体験行為
④ 聞き手を意識しない
⑤ 声は、出すのではなく出る:体験に伴って表出する
⑥ 声そのものではなく、声とともにある体験こそが大事
照らし合わせると、エッセイの言葉は「伝達の言葉」であるけれど、エッセイの朗読は、「従来の朗読」ではなく、「新しい朗読」がふさわしいといえそうです。
エッセイの朗読者も、文学作品や物語の朗読者と同じように、語り手(作者)の追体験を試みます。相違点は、その体験が、語り手(作者)によって編集されたものであるという点。それゆえに、語り手と同じ体験は不可能だという点でしょう。
表出する音声は、朗読者の解釈ーー作者とどのような意味の共有をしているのかを知る手段となります。聞き手は、自分なりの解釈を持って朗読を聞く。これこそが、能動的な「聞く読書」であり、朗読者の解釈の豊かさや独自性こそが聞き手を魅了します。
「従来の朗読」では、語り手である作者の言葉であるにもかかわらず、朗読者その人の言葉であるかのように、聞き手は受け取りかねません。本来、読書シーンで生まれるはずの「作者との対話の機会」は見事に損なわれます。
聞き手側の損失に止まりません。朗読者自身も、あたかも自分は語り手(作者)のことをすっかり理解できていると錯覚して、他者から学ぶ貴重な機会を逃してしまうかもしれません。
■ まとめ
● エッセイにふさわしいのは「新しい朗読」:語り手の追体験を試みると、自らの解釈が聞き手に届く。聞き手が受け取るのは、完成された意味ではなく、朗読者が意味にたどり着こうとした痕跡。
聞き手に伝えようと声を整えるのではありません。言葉を紡いだ作者の時間の重さに身を委ねてみるーーそんな姿勢こそ大切です。それが、エッセイを朗読するたのしさであり、音声のやさしい奥行きにつながるのかもしれません。
エッセイの朗読者が、自らの解釈の質を高めるために必要なことは、物語の朗読者に必要なこととまったく同じ。
いくつになっても学び続けるマインドを持つことです。新しい体験を求めて文学作品を朗読すると、新しい認知回路を増やすことができます。
そして、深遠な解釈と響き合うしなやかな身体と心を保ちましょう。
小さなことも全身で面白がって、日常を豊かに生きるーーそんな晴れやかな気持ちは、物語の朗読のみならず、エッセイの朗読の土台にもなりそうですね。




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