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「従来の朗読」から「新しい朗読」へ【4連載・最終回】

更新日:4 日前



「新しい朗読」について考えてきた連載も、これが最終回です。


これまでみてきたように、文学作品や物語、そしてエッセイにふさわしいのは、「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」ではなく、「新しい朗読(語り手の追体験を試みる体験行為)」でした。


もちろん「従来の朗読」を否定するわけではなく、文学作品や物語、エッセイなどの読書領域では「新しい朗読」。アナウンス領域やナレーション領域、音声で観客に届けることを前提に用意された文章などの上演領域に関しては、「従来の朗読」。このように棲み分けが必要だということです。


読書領域において、私たちは、「従来の朗読」から「新しい朗読」へとシフトしていけるといいですね。


どうしても「従来の朗読」のイメージが強く根づいているため、「声を出すのではなく、声は出る」「聞き手を意識しない」といった「新しい朗読」の考え方には、誰もが戸惑いを覚えるかもしれません。私自身がそうでした。


焦ることなくのんびりと、皆で一緒に進んでまいりましょう♪



1.朗読者の立場から


■ 声を出すのではなく、声は出る


経験者ほど、これまでの「表現」の習慣から抜け出すことを難しく感じるかもしれません。無意識のうちに「声を出そう」「声をつくろう」としがち。それでは、文学体験ーー本質的な読書体験から遠ざかってしまいます。


どう乗り越えればいいでしょうか。


➡︎ 「表現をやめること」をゴールとするのではなく、「語り手の体験に集中した結果、自然に声が出ている状態を探る」というプロセスを重視することが大切です。


たとえば、「声を出す」という言葉が自分から出たときなど、「あ、違った。朗読では、声は出すんじゃなくて出るんだった」と言い直しましょう。何度でも言い直して、思考を上書きしながら楽しんで進みましょう。


「あ、いま表現しちゃったな」と感じたら、そこで立ち止まり、そう感じることができた自分を褒めたうえで、あらためて体験に集中すればいいのです。時間は長くかかってもかまいません。というか、長くかかったほうがいいのです。そのほうが身につきます。やり直しを何度でも楽しみましょう。


聞き手を意識しない


「聞き手を意識しない」という言葉は、字面だけ見ると「独りよがり」「自己満足」といったネガティブな印象を持ってしまうかもしれません。特に、朗読に「何かを伝える」という価値を見出してきた人にとっては、この点が抵抗となる可能性があります。


どう乗り越えればいいでしょうか。


➡︎ 物語の朗読では、「聞き手に伝える」という意識から解放されると、「聞き手とともに体験する」悦びを得ることができます。


虚構世界を生きるという命輝く体験は、必ず聞き手の体験を促すものです。伝える側・受け取る側といった区別はありません。「体験の表出である音声」で聞き手を誘い、ともに虚構世界を歩いてみると、「聞き手を意識しない」という言葉の真意が身に沁みるはずです。



2.「聞き手」の立場から


■ 表出する音声は、朗読者の体験に触れる手がかり〜文学作品の場合


文学作品と向き合う「新しい朗読」の場で、聞き手が「評価する」という従来の姿勢で臨んでしまうと、朗読者の体験を阻害したり、聞き手自身も「語り手の体験に近づこうとする仲間」としての役割を果たしにくくなります。


どう乗り越えればいいでしょうか。


➡︎ 参加者全員が「体験を共有する仲間」であることを、朗読を聞く前に、何度も確認しましょう。表出している音声から、体験そのものを感じ取ろうと、皆でその思いを共有するのです。


具体的には、「感じ取ろう」と努力するのではなく、「感じ取らなきゃ」と身構えるのでもなく、ただ自分自身が見つけた体験に身を委ねます。すると、朗読者の体験に共感や違和感が自ずと湧いてくるようになります。焦らないことが大切。皆で楽しみながら進めましょう。


■ 想像力を使う〜物語の場合


物語の朗読を聞くとき、子どもたちは、上手に虚構世界を一緒に歩いてくれます。

一方で大人の中には、朗読を「評価する」という従来の姿勢で臨んでしまう人もいます。それでは、せっかく朗読者が虚構世界を生きて、虚構世界へ誘ってくれても、その世界に入りづらくなってしまいます。


どう乗り越えればいいでしょうか。


➡︎「朗読者は表現する人、私はそれを受け取る人」という受動的な態度を退けましょう。朗読者は虚構世界を生きているのです。自らその世界を体験しようと思うこと。

ただただ体験を楽しむ姿勢は本当に大事です。



3.まとめ


「朗読というのは、語り手の追体験を試みる体験行為です。体験を伴う読書行為ですよ」とお話しすると、「えっ、じゃあ何のために朗読するんですか⁉️」と質問してくださる方が少なくありません。私も、自問自答する時間がしばらく続きました。


■ 私たちは固定観念に縛られる


「聞き手に音声を届けるのが朗読だ」という激しい思い込みが、私たちにそう言わせるのですね。


そして、そこにあるのは、「私は、この作品を理解できている。だから、私にはこの作品を届ける資格がある」という根拠のない確信なのかもしれません。もちろん自覚すらなく。


「新しい朗読」に取り組んでいると、私たちは、いかに自分の作品理解が浅いかに気づきます。語り手のことが何もわかっていなかったことを理解します。


これこそが、読書の醍醐味なのでしょう。


「新しい朗読」のおかげで、いつの間にか、私たちの心は豊かに育っています。これは、文学作品そのものが、脳と心を育てる凄まじい力を内包しているからに違いありません。


新しい朗読は、文学の力を受け取る手段。手段に過ぎないけれど、かけがえのない最高の手段だと、この「新しい朗読」に心から感謝しています。



4.朗読とは


ここまで、「新しい朗読」という言葉を使ってきました。


それは、これまで一般的に「朗読」と呼ばれてきた音声表現行為(=「従来の朗読」)と、区別する必要があったからです。


声に出して読むという行為そのものは、「音読」と呼ぶことができます。


アナウンスやナレーション・読み語り・朗読劇・語り芸などが、音読を基盤とした音声表現行為でしょう。これらの領域では、「従来の朗読」がふさわしいのです。そして、あえて「朗読」と呼ばなくても、もうすでに、アナウンス、ナレーション、読み語り、朗読劇、語りといった名前を持っています。


一方で、文学作品や物語・エッセイと向き合い、語り手の体験を生きようとする「新しい朗読」は、読書行為です。その過程で、音読を通して言葉との関係を深めることはあっても、音読を基盤とした音声表現行為とは、まったく別物です。


読書体験に伴う声は、目的ではなく、自然に生まれる表出です。


読書領域における、このような読みの姿勢こそが、本来「朗読」と呼ばれるものなのではないでしょうか。


誰かに何かを届けるための技ではない。

皆で、語り手の体験に丁寧に近づこうとするなかで、ささやかだけれど重大な発見をして、それを仲間と共有し胸躍らせるーー「朗読」とは、そういう稀有な営みなのではないか…



いまは、まだ暫定的に「新しい朗読」と呼んでいますが、いずれ「新しい」という言葉が不要になり、「朗読」と言えば「新しい朗読」を指す日が訪れるのでしょう。


その日を、皆さまとともに、ワクワクしながら待ちたいと思います。

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Salon de Marikoのロゴは、ハートの形をモチーフにしています。文学作品を味わう過程と時間を、朗読で、人と共にすることで、心(脳)が豊かに育つことを表しています。また「サロン」は、人の温かみのある上質な学びの時空間を表しています。

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