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「朗読」を、読書領域に:表現の座標を離れるということ

  • 1月1日
  • 読了時間: 3分

更新日:4 日前


(この記事は、前回のブログ「朗読の地図」とあわせてお読みいただけるとうれしいです)


たしかに長い間、朗読は「声の技術」として捉えられ、「表現の巧拙」が評価されてきました。


そのような土壌があるからでしょう。読書領域の朗読(サロンドマリコの「新しい朗読」)について語っても、多くの人が「従来の朗読(表現としての朗読)」を基準点に置き、そこからの「差分」で解釈しようとします。


それは無理もないことですが、そのままでは、本質に近づくことが難しくなります。


なぜなら、サロンドマリコの「朗読の地図」における従来の朗読は、読書領域の朗読とは全く別の座標軸を持つ「上演領域」に存在するからです。


上演領域では、「うまく読めているか」「聞き手に伝わっているか」をつねに外側から気にしている自分がいますが、読書領域では、気づいたら虚構世界を生きていて声のことなど何も考えていない自分がいます。


それでは、「読書領域の朗読」をサロンドマリコがどう捉えているのか、あらためてみていきます。



1.「声」は結果であって目的ではない


従来の朗読観に引きずられると、「声をどう出すか」という出口から逆算してしまいます。しかし、読書領域の朗読は、自らの身体と脳を使って「語り手」の追体験を試みるーーその行為のプロセスそのものです。


言葉が自然に生まれるときに、「声」はただついてきているに過ぎません。

声は、出すものではなく、出るもの。

AI的な枠組みで、「表現」と呼ばれているものは、サロンドマリコにとっては「体験の副産物」です。



2.「伝達」ではなく「共生」


従来の朗読観を引きずったままでは、「伝える」「届ける」といった、読み手と聞き手の「二者間」のコミュニケーションを想定してしまいがちです。


しかし、サロンドマリコが想定する読書領域では、読者は、虚構世界を生きようとする存在であり、それがすべてです。


読書領域においては、たとえば物語の聞き手も、虚構世界を生きる仲間であって、朗読する読者が体験している虚構空間に同席し、共に呼吸する読者なのです。



3.「脳育」としての真実


もちろん、特別な才能の話ではありません。読書の最中に、ふと我を忘れて作品世界に入り込んでいるーーそんな断片的な体験の延長線上に、読書領域の朗読はあります。


AIは言葉をデータとして「処理」しますが、サロンドマリコの朗読は言葉を「受肉」させます。


脳が受け取った語り手の言葉を、自らの体験と一体化した「生きた言葉」として、新たに立ち上げる。この「体験を生きる」という濃密な文学体験こそ、サロンドマリコが「脳育」と呼び、「読書領域の朗読」として示している「新しい朗読」です。


AI的な枠組みの「表現」でこの活動をカテゴライズすることはできません。サロンドマリコが何年もかけて問い直し、修士論文や著書『新しい朗読』で再定義した新しい営みは、「既存の器」では回収できないのです。


読書領域における朗読は、AIのように身体を持たない「出力装置」が辿り着ける場所ではありません。それは、「身体を持つ人間が、言葉を通じて自己を更新していく旅」なのです。



(詩や小説など)文学作品の言葉が内包する音声に触れようとしている朗読者は、もうすでに、「体験している音声」と「表現している音声」の違いを嗅ぎ分けはじめています。



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