

ご感想いただきました♪「朗読をたのしんでいます」
【朗読とは、文学作品の語り手の体験と同じ体験を“試みる”行為である。】 最近この定義が、ようやく、すんなり、出てくるようになりました。そして、体験を試みることによって、文学作品の豊かさを少しづつ得られているように思います。 私にとって朗読の愉しさは、仮説と検証の繰り返しの中にあります。 仮説に基づいて検証した結果、全く違う言葉が出てくることが多々あります。しかし、それは間違いではなく「私はこのような場面ではこう思ったり、こう言ったりするんだな」と語り手との違いに気づく起点となってくれます。 私はこうだけど、語り手はちがう、どうしたら近づくことが出来るのか、仮説と検証を繰り返していきます。そのうちに何故か違いに気づく事が愉しくなってきます。 そして、体験に近づいていく過程で、今まで持ったことがないような感覚や感情を覚えたことがあります。それは、「あれっ私にもこんな感情あったんだ」と自分自身でも驚くような心地よいものでした。きっと語り手の体験に近づけたからこその結果だと思っています。 その心地よさをもう一度味わいたいと思いながら、朗読をたのしんでいま


『小説』誕生以降の文学作品と『朗読』
「朗読は音声表現」というイメージは、どうして広がったのでしょうか。 明治になると、文学の新しい形式として「小説」が誕生しました。 小説は、「文字言語だけで虚構世界が立ち上がる構造」を持ちます。つまり、「語り手の認知や思考」をそのまま反映させた言葉によって、読者に、虚構の作品世界を「自分ごと」として生きることを求めます。読者一人ひとりに、自ら文字言語と向き合い、各々の虚構世界を立ち上げることを要請するのです。 小説の誕生によって文学は変容し、小説誕生以降の文学作品は、もはや音声でやり取りするものではなくなりました。 では、当時の朗読は、この文学の変容に対応したのでしょうか。 対応しなかったのだと思います。小説が誕生する前の「文章を読み上げ、音声で届ける」というスタイルは変わらなかった。そのため、読書行為の中心は、次第に「黙読」に移っていったと考えられます。 朗読は、その後も、はっきりと定義されることのないままに「文章を読み上げる行為」として受け継がれ、やがて、「表現する喜び」の受け皿となっていったのかもしれません。 そして、「朗読は音声表現」という


朗読の音声とは?
あなたにとって、朗読の音声とは何ですか? 「あれ、なんだっけ?」でもいいですよ。この記事の最後に、あらためて音声記事の抜粋を載せておくので読んでみてくださいね。 では、話を戻しましょう。 あなたは、また音声を目的にしていませんか? 「この音声で大丈夫かしら?」と不安になったり、「どんな声を出そうかしら?」など間や緩急を工夫したり、「これでいいか悪いかを知りたい」と指導してほしくなったり… こういうときは、上演領域にいると気づけるといいですね。 朗読者は、言葉が生まれる際に伴う音声で、虚構世界を生きる「自らの体験」を仲間に開きます。各々の体験を持ち寄れば、さらに語り手に近づいていけます。 「あなたの体験」を開く「あなたの音声」は、あなたが仲間に贈る「愛」なのかもしれません。 仲間への愛で開かれる「体験」に伴う音声だからこそ、「朗読の音声」は、ともに語り手へ近づいていくための大切な手段となるのでしょう。 まずは、虚構世界をイメージすること。そして、自分の身体と五感を使って生きてみること。これは、あなた自身にしかできないことです。 自分の知覚と認知が、


