

「朗読」という読書法の提案②:サロンドマリコの朗読メソッド「入門テキスト」
最初に、前提を共有しておきましょう。 朗読は「上演領域」の行為ではなく、「読書領域」に属する行為。つまり、聞き手の感動を目指す表現行為ではなく、虚構世界を生きようとする体験行為です。 ■ 朗読の定義 サロンドマリコでは、朗読を「語り手の体験と同じ体験を試みる体験行為」と定義しています。 世界を認知する身体の反応として、 予測できない声が自然に出ます 。これは、意識的に声を出す表現行為とはまったく別のものです。 ■ 朗読は読書法である サロンドマリコは、朗読を「仮説と検証を繰り返し、少しずつ語り手に接近していく読書法」だと捉えています。 仮説を立てる段階では、従来の読書と同様に、主に左脳(言語脳)を使います。しかし、仮説を検証する段階では、身体そのものと五感(知覚)、そして、右脳(イメージ脳)の働きが中心になります。これが、とてもユニークなところです。 仮説と検証の反復を愉しんでいるうちに、語り手との距離は徐々に縮まります。 語り手に寄り添って歩けるようになると、私たち朗読者も、(自分ごととして) 作品世界を生きる ことができます。 ☆[サロ


「朗読」という読書法の提案①:朗読は上演領域?それとも読書領域?
近代以降の文学作品を、私たちはどのように受け取るのが適切なのでしょうか。 サロンドマリコでは、「朗読」という読書行為を提案しています。 今回は、「朗読」とはどのような行為なのかを、あらためて共有することから始めましょう。 文字言語のみで虚構世界を立ち上げようとする文学作品について考えます。 ■ 朗読が存在するのは、上演領域か?それとも読書領域か? 朗読は、文学作品を対象とし、音声を伴います。 これは、誰もが自然に共有できることだと思います。 しかし、問題はここからです。 「音声を伴う」ということのみで、上演領域を思い浮かべる人が多いのです。 では、「上演領域に朗読」というのは、はたして本当に適切な配置なのでしょうか? 朗読が対象とする「文学作品」は、上演台本とは異なり、 文字言語のみで完結する構造 を持っています。 つまり、文学作品はもともと文字言語だけで完結する構造を持っていて、その点で、上演台本とは大きく異なるのです。 したがって、音声によって完成する上演領域で朗読を扱おうとすると、構造が噛み合いません。 朗読は、読書領域で扱うのが自然です。


「読書領域の朗読」へ:パラダイムシフト
「上演領域」から「読書領域」へ移行すると、座標軸は、 虚構世界を“届ける”から、虚構世界を“生きる”に変わります。 これは、朗読における「コペルニクス的転回」といえるかもしれません。 朗読という行為に、聞き手に届ける「音訳」のようなイメージ、創意工夫する「音読(読み上げ)」のようなイメージを持っている人にとっては、まさにパラダイムシフトと感じられる出来事なのだと思います。 ■ 中心が、朗読者から語り手へ 従来の朗読観は、 朗読者を中心 に据えます。 つまり、朗読者が語り手を解釈します。そして、その解釈を反映させた音声を聞き手に届けようとします。 朗読者は、聞き手に感動を与えることを目指し、表現に創意工夫を重ねます。 一方、サロンドマリコの提示する「読書領域の朗読」の朗読観は、 語り手を中心 に据えます。 ここでいう語り手とは、言葉によって虚構世界を立ち上げ、読者に体験を促そうとする言語主体です。 朗読者は、語り手の追体験を試みます。そうすることで、語り手に接近しようとします。 つまり、身体を使った「仮説と検証」の往還で、語り手に近づくことを目指し


