

他者を尊重するとは?
どうして私たちは、すぐに解釈したくなるのでしょうか? わからないままでいるのはしんどい。 たしかにそうかもしれませんね。でも、わからないという状態を手放さずに、ゆっくりと時間をかけてわかっていく。そんな面白さもありますよね。 これは、文学作品についてもいえると思います。解釈は、立派な評論家や研究者にお任せすることにして、私たちは、文学作品の虚構世界を「自分ごと」として生きてみませんか? 朗読(もちろん、語り手の体験と同じ体験を試みる行為です)によって、小さな発見やかすかな気づきと出逢うことができます。ささやかかもしれないけれど、その積み重ねが、少しずつ脳をやわらかく耕し、やがてそこに、新たな回路が芽生えていきます。 大切なのは、すぐに、安易に、わかったことにしないことなのでしょう。 朗読教室では、「わかろうとせず、わかったことにせず、のんびり付き合う」と最初に板書しています。 それが、「語り手」という他者を尊重することになるのかもしれませんね。そしてこの姿勢は、私たちが、現実世界で他者と向き合うときにも、おそらく活きてくるのではないでしょうか。


「朗読をたのしんでいます」ご感想ありがとうございます♪
【朗読とは、文学作品の語り手の体験と同じ体験を“試みる”行為である。】 最近この定義が、ようやく、すんなり、出てくるようになりました。そして、体験を試みることによって、文学作品の豊かさを少しづつ得られているように思います。 私にとって朗読の愉しさは、仮説と検証の繰り返しの中にあります。 仮説に基づいて検証した結果、全く違う言葉が出てくることが多々あります。しかし、それは間違いではなく「私はこのような場面ではこう思ったり、こう言ったりするんだな」と語り手との違いに気づく起点となってくれます。 私はこうだけど、語り手はちがう、どうしたら近づくことが出来るのか、仮説と検証を繰り返していきます。そのうちに何故か違いに気づく事が愉しくなってきます。 そして、体験に近づいていく過程で、今まで持ったことがないような感覚や感情を覚えたことがあります。それは、「あれっ私にもこんな感情あったんだ」と自分自身でも驚くような心地よいものでした。きっと語り手の体験に近づけたからこその結果だと思っています。 その心地よさをもう一度味わいたいと思いながら、朗読をたのしんでいま


朗読とは? 『小説』誕生以降の文学作品と『朗読』
「朗読は音声表現」というイメージは、どうして広がったのでしょうか。 明治になると、文学の新しい形式として「小説」が誕生しました。 小説は、「文字言語だけで虚構世界が立ち上がる構造」を持ちます。つまり、「語り手の認知や思考」をそのまま反映させた言葉によって、読者に、虚構の作品世界を「自分ごと」として生きることを求めます。読者一人ひとりに、自ら文字言語と向き合い、各々の虚構世界を立ち上げることを要請するのです。 小説の誕生によって文学は変容し、小説誕生以降の文学作品は、もはや音声でやり取りするものではなくなりました。 では、当時の朗読は、この文学の変容に対応したのでしょうか。 対応しなかったのだと思います。小説が誕生する前の「文章を読み上げ、音声で届ける」というスタイルは変わらなかった。そのため、読書行為の中心は、次第に「黙読」に移っていったと考えられます。 朗読は、その後も、はっきりと定義されることのないままに「文章を読み上げる行為」として受け継がれ、やがて、「表現する喜び」の受け皿となっていったのかもしれません。 そして、「朗読は音声表現」という


