

文学作品の幸せな受け取り方:「朗読」という読書法の提案③ 〜文学作品を幸せに享受するために〜
※今回のブログは三部構成でお届けしています。 ① 理論 ② 方法論 ③ 文学作品を幸せに享受するために(本記事) ここまでお読みくださり誠にありがとうございます。 朗読指導を始めて25年。ようやくここまで来ることができました。いっしょに朗読の道を歩き続けてくださる皆さま、いつも応援してくださる皆さまのおかげです。心より感謝申し上げます。 ■ 2001年に朗読指導を始めて 最初の頃は、私自身も「朗読は音声表現行為」というイメージを鵜呑みにしていた気がします。 でも、対象とする文学作品を、まるでアナウンス原稿やナレーション原稿、あるいは上演台本のように扱う構造に、違和感を覚えるようになりました。 文学と共にある朗読の存在意義って何だろう? まずは、「文学」について学ぶ必要がある。その上で、朗読について研究しよう。 そんな思いで2011年に社会人入学した愛知淑徳大学大学院 文化創造研究科で、貴重な学びを得ることができました。その一つが、「語り手」という文学概念です。 作者はなぜ自ら語ることをせずに、虚構世界を生きる「語り手」を設定し、その語り手に語らせ


文学作品の幸せな受け取り方:「朗読」という読書法の提案②(入門テキスト)
最初に、前提を共有しておきましょう。 朗読は「上演領域」の行為ではなく、「読書領域」に属する行為であり、聞き手に感動を届けるための表現行為ではなく、作品世界を自分ごととして生きようとする体験行為です。 ■ 朗読の定義 サロンドマリコでは、朗読を、「(文学作品の)語り手の追体験を試みる体験行為」と定義しています。 語り手の追体験を試みる過程で、世界を認知する身体の反応として、予測できない声が自然に出ます。これは、意識的に声を出す表現行為とはまったく別のものです。 ■ 朗読は読書法である サロンドマリコは、「仮説と検証を繰り返し、少しずつ語り手に接近していく読書法」として、朗読を捉えています。 仮説を立てる段階では、左脳(言語脳)と右脳(イメージ脳)をメインで使います。 検証の段階では、左脳に少し休憩してもらって、右脳と(知覚する)身体の働きが中心になります。 これが、朗読ならではのユニークなところです。 (「左脳」「右脳」という言葉は、情報処理の傾向を表すものとして便宜的に用いています) 仮説と検証の反復を愉しんでいるうちに、語り手との距離は


文学作品の幸せな受け取り方:「朗読」という読書法の提案①
この3連載ブログでは、文字言語のみで虚構世界を立ち上げようとする文学作品を扱います。 文学の定義はさまざまですが、個々人が学ぶことのできる作品、すなわち、自分を変える可能性を持つものを「文学」と呼ぶことにします。 では、「文学作品の可能性を受け取る読書法」とは、どのようなものでしょうか。 サロンドマリコでは、「朗読」という読書法を提案しています。まずは、「朗読とはどのような行為なのか」を共有しましょう。 ■ 朗読が存在するのは、上演領域か?それとも読書領域か? 朗読は、文学作品を対象とし、音声を伴います。 これは、ほとんどの人が共有できることでしょう。 しかし、ここで問題が生じます。 私たちの多くが、「音声を伴う」ということに注目してしまい、自然に上演領域(言葉を届ける行為の場)を思い浮かべるのです。 多くの人が支持する「上演領域に朗読」という配置は、はたして本当に適切なのでしょうか? 文学作品は、音声を得て完成する上演台本とは大きく異なり、文字言語のみで完結する構造を持ちます。したがって、文学作品を上演領域で扱おうとすると、構造が噛み合いません


