

「朗読」という読書法の提案①:朗読は上演領域?それとも読書領域?
近代以降の文学作品を、私たちはどのように受け取るのが適切なのでしょうか。 サロンドマリコでは、「朗読」という読書行為を提案しています。 今回は、「朗読」とはどのような行為なのかを、あらためて共有することから始めましょう。 文字言語のみで虚構世界を立ち上げようとする文学作品について考えます。 ■ 朗読が存在するのは、上演領域か?それとも読書領域か? 朗読は、文学作品を対象とし、音声を伴います。 これは、誰もが自然に共有できることだと思います。 しかし、問題はここからです。 「音声を伴う」ということのみで、上演領域を思い浮かべる人が多いのです。 では、「上演領域に朗読」というのは、はたして本当に適切な配置なのでしょうか? 朗読が対象とする「文学作品」は、上演台本とは異なり、 文字言語のみで完結する構造 を持っています。したがって、音声によって完成する上演領域で朗読を扱おうとすると、構造が噛み合いません。 朗読は、読書領域で扱うのが自然です。そうすることで、音声と言葉の関係に無理が生じません。 ■ 朗読をどう定義するか? 【朗読とは、(文学作品の)語り


「読書領域の朗読」へ:パラダイムシフト
「上演領域」から「読書領域」へ移行すると、座標軸は、 虚構世界を“届ける”から、虚構世界を“生きる”に変わります。 これは、朗読における「コペルニクス的転回」といえるかもしれません。 朗読という行為に、聞き手に届ける「音訳」のようなイメージ、創意工夫する「音読(読み上げ)」のようなイメージを持っている人にとっては、まさにパラダイムシフトと感じられる出来事なのだと思います。 ■ 中心が、朗読者から語り手へ 従来の朗読観は、 朗読者を中心 に据えます。 つまり、朗読者が語り手を解釈します。そして、その解釈を反映させた音声を聞き手に届けようとします。 朗読者は、聞き手に感動を与えることを目指し、表現に創意工夫を重ねます。 一方、サロンドマリコの提示する「読書領域の朗読」の朗読観は、 語り手を中心 に据えます。 ここでいう語り手とは、言葉によって虚構世界を立ち上げ、読者に体験を促そうとする言語主体です。 朗読者は、語り手の追体験を試みます。そうすることで、語り手に接近しようとします。 つまり、身体を使った「仮説と検証」の往還で、語り手に近づくことを目指し


読書領域の朗読:世界の受け取り方が変わっていく
前回のブログでは、サロンドマリコの方法論をご紹介しました。 今回は、「読書領域の朗読」が私たちにどのような変化をもたらすのか、考えてみたいと思います。 ■ 読書領域の朗読は… 読書領域の朗読は、文学作品の言葉を、急いで意味に回収しません。つまり、解釈してわかったことにしません。もちろん、(解釈を反映させて)表現することもしません。 言葉が生まれる脳・五感・身体に思いを馳せて仮説を立て、自らの身体で検証します。 仮説と検証を繰り返していると、ゆっくりと語り手が近づいてきます。語り手に接近したとき、自分のなかに初めての感情や感覚が立ち上がる…それを待ちます。 ■ 朗読がもたらすものは… 「読書領域の朗読」を通してこのような習慣を持つと、人の言葉を、結論よりも背景ごと聞けるようになります。出来事を、善悪や成功失敗だけで切らなくなるし、すぐ理解できない他者や状況に、居場所を残せるようになります。 これは、人間や出来事を味わえる脳になるということなのでしょう。 文学体験を目指す「読書領域の朗読」は、 ・共感力が育ちます ・感性が豊かになります...


