文学作品の幸せな受け取りかた:「朗読」という読書法の提案③ 〜文学作品を幸せに享受するために〜
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更新日:6 時間前

※今回のブログは三部構成でお届けしています。
① 理論
② 方法論
③ 文学作品を幸せに享受するために(本記事)
ここまでお読みくださり誠にありがとうございます。
朗読指導を始めて25年。ようやくここまで来ることができました。いっしょに朗読の道を歩き続けてくださった皆さま、応援してくださる皆さまのおかげです。心より感謝申し上げます。
■ 2001年に朗読指導を始めて
最初の頃は、私自身が「朗読は音声表現行為」というイメージを鵜呑みにしていた気がします。
でも、対象とする文学作品を、まるでアナウンス原稿やナレーション原稿、あるいは上演台本のように扱う構造に、違和感を覚えるようになりました。
文学と共にある朗読の存在意義って何だろう?
まずは、「文学」について学ぶ必要がある。その上で、朗読について研究しよう。
そんな思いで2011年に社会人入学した愛知淑徳大学大学院 文化創造研究科で、貴重な学びを得ることができました。その一つが、「語り手」という文学概念です。
作者はなぜ自ら語ることをせずに、虚構世界を生きる「語り手」を設定し、その語り手に語らせるのだろう?
この答えを見つけてから、文学の言葉とぐっと仲良くなれたように思います。
2013年には、「朗読とは、自分の読みを朗かにする読書行為である」と修士論文にまとめることができました。
■ 朗読の本質をどう伝えるか?
その後は、朗読教室や朗読会で、「語り手」に注目することの大切さを伝えようと努めました。ところが「従来の朗読」のイメージがあまりにも強く、簡単には進みません。
話すことすべてが「音声表現」に回収されてしまう…そんなもどかしい日々が続いていた2020年、コロナ禍となり、全てのカルチャーレッスンがストップしました。このとき、あらためて「朗読という行為の本質」を考えました。
朗読教室の皆さまと会えずにつらい期間でしたが、思考を深めるには、この時間はとても大事だったと思います。
再開したレッスンでは、(従来の朗読とはまったく異なる)「新しい朗読」を皆で共有する方法を探るようになりました。その試行錯誤のすべてが、2025年の夏に出版した拙著『新しい朗読ー語り手の体験を生きる読書法』に繋がっています。
■ 『新しい朗読ー語り手の体験を生きる読書法』から、さらに先へ
『新しい朗読ー語り手の体験を生きる読書法』という本は、詩や短編小説を対象とした朗読についてまとめたものです。
同年秋になると、「エッセイや物語の朗読についても、しっかり考察しまとめておきたい」と考えるようになりました。(12月にブログ記事をアップロードしています。ご興味があればお読みください)
この作業で、思いがけない嬉しい収穫がありました。読書領域・上演領域という言葉が生まれてきてくれたのです。読書領域とは、読書そのものの領域。上演領域とは、聞き手や観客に向けた上演行為が属する領域を指します。
■ 上演領域に「朗読」は存在しない
「上演領域に朗読は存在しない」というと、従来の朗読を学んでいらした方は、おそらく良い顔をなさらないでしょう。
上演行為も表現も素晴らしいものです。表現そのものを否定しているわけではありません。
あくまでも「文学作品という構造」と「上演領域」の相性の問題であり、第1章で書いたように、「朗読は読書領域に置くのが自然」だということです。
何度でも繰り返しますが、語り手の「認知」を、言葉として記述したものが文学作品です。つまり、文学作品の語り手の言葉には、すでに体験が内包されています。
ですから、上演領域に持ち込むならば、言葉と音声の調和は必ず乱れます。その不調和は、音声表現を行う人の身体に刻まれていきます。聞き手にも手渡されてしまいます。
もちろん、誰にも悪気はありません。しかし、このように不調和を促してしまうとわかった以上、「文学作品を上演台本として扱う行為」はおすすめできませんし、それを「朗読」と呼ぶことは適切ではないと考えます。
◾️ 小説誕生以降の文学作品と朗読
明治時代、「文学」は小説という形式の誕生とともに大きく発展しました。しかし当時「朗読」は、それまで通り「文章を読み上げる行為」のままで、文学の変容に対応できなかった。だから、読書の中心は「黙読」に取って代わられていきました。
朗読の基本は、文学作品を対象とし、音声を伴うことだと考えます。
本来であれば、小説という文学形式の誕生に合わせて、朗読も変容する必要がありました。しかし、かつての「読み上げ行為としての朗読」が残り、そこに「表現する喜び」が重なった結果、文学作品を対象としながらも、それを上演台本のように扱うのが「朗読」だというイメージが広がってしまったのでしょう。
しかし何度も述べているように、それは文学作品の構造とは合いません。文学作品を対象とする以上、朗読の再定義は必然です。
朗読は、「読み上げる行為」から「語り手の体験に接近しようとする体験行為」に変容することによって、ようやく「小説」誕生以降の文学形式にふさわしい読書行為となります。
■ 「朗読」は、言葉と体験の調和を目指す
朗読は、「文学作品の言葉」と「読者の体験(音声)」を調和へと導く営みです。
朗読者は、「語り手の体験と自分の体験はズレている」という事実を知るところからスタートして、そのズレを少しずつ縮めていきます。言葉と体験は徐々に調和していくのです。
読書領域には、上演領域でいう解釈も表現もありません。そこには、自由な試行錯誤と理解の深化があるだけです。
皆で話し合いを愉しみながら、「言葉と体験の調和」に向けて、ゆっくりと進みます。脳はふかふかに耕され、少しずつ新しい回路を増やし、心は満ちていくのを感じます。
よく、忙しくて本を読む時間がないという声を聞きます。でも、余裕がないときこそ、朗読することをおすすめします。
「言葉と体験の調和」を目指す朗読の時間は、じつは、自分が整う時間なのかもしれません。
現実世界に戻って、(処理能力が上がったからでしょう)快適に過ごす人たちを、これまでにたくさん見てきました。だから、そう思います。
■ 脳の成長
朗読とは、仮説と検証の往還です。
仮説を立てる際には、左脳も右脳もふかふかに耕されるのを感じます。
仮説を検証する際には、左脳に少し休憩してもらって、身体と右脳に活躍してもらいます。
語り手の体験に近づいてくると、小さな芽吹きのような新たな回路が、脳内に敷設されるのを感じます。
仮説と検証を繰り返して語り手に接近し、やがて語り手に寄り添って虚構世界を生きることができたとき、語り手にとっての「新しい体験」は、読者にとっても「新しい体験」となります。
いよいよ、脳の再構築が始まるのでしょう。
■ まとめ
ご紹介したい言葉があります。
「無知は罪なことではない。真の罪は何も学ばぬことだ。知ったつもりになって探究を怠る。これほど愚かなことはない。」
「わからないことをわかっていないと、わからないことはわかりません。」
一つ目は、惣領冬実さんが作品の中で主人公チェーザレに語らせた言葉。二つ目は、テレビドラマ『テミスの不確かな法定』で松山ケンイチさん演じる主人公の裁判官が何度も語る言葉です。
私たちは、安易に、知ったつもり、わかったつもりになりがちですが、そんな自分に気づかせてくれるのが、朗読であり、文学なのかもしれません。
朗読は、「学ぶ愉しさ」と「新しい自分に出逢う悦び」を私たちにプレゼントしてくれます。
朗読を通して、文学の豊かさをたっぷり受け取れると素敵ですね。
あなたもぜひご一緒ください。
サロンドマリコがそっと、そして、のんびりと伴走いたします🎵
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