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文学作品の幸せな受け取り方:「朗読」という読書法の提案③ 〜文学作品を幸せに享受するために〜

  • 3月11日
  • 読了時間: 6分

更新日:1 日前


※この連載は三部構成でお届けしています。

① 理論

② 方法論

③ 文学作品を幸せに享受するために(本記事)


ここまでお読みくださり誠にありがとうございます。


25年にわたり朗読教室の講師を続けるなかで、朗読は、文学の奥深さをていねいに味わう読書法なのだと確信するようになりました。

指導を始めた頃には想像もできなかった豊かな世界を、いま生きています。


いっしょに朗読の道を歩いてくださる皆さま、いつも応援してくださる皆さまのおかげです。

心より感謝申し上げます。



■ 2001年に朗読指導を始めて


当時は、私自身も「朗読は音声表現行為」というイメージを鵜呑みにしていました。


でも、対象とする文学作品を、まるでアナウンス原稿やナレーション原稿、あるいは上演台本のように扱う構造に、次第に違和感を覚えるようになりました。


文学と共にある朗読の存在意義って何だろう?

まずは、「文学」について学ぶ必要がある。そのうえで、朗読について研究しよう。


そんな思いで2011年に社会人入学した愛知淑徳大学大学院 文化創造研究科で、貴重な学びを得ることができました。その一つが、「語り手」という文学概念です。


作者は、なぜ自ら語ることをせずに、虚構世界を生きる「語り手」を設定し、その語り手に語らせるのだろう?


この答えが見つかってから、文学の言葉とぐっと仲良くなれたように思います。


2013年には、「朗読とは、自分の読みを朗かにする読書行為である」と修士論文にまとめることができました。



■ 朗読の本質をどう伝えるか?


その後は、朗読教室や『文学賞味会』と名付けたイベントで、「語り手」に注目することの大切さを伝えようと努めました。ところが「朗読=音声表現」のイメージがあまりにも強く、簡単には進みません。


「朗読は音声表現ではない」と話しても、いつの間にか「音声表現」に回収されている…そんなもどかしい日々が続いていた2020年、コロナ禍で全てのカルチャーレッスンがストップしました。このとき、あらためて、「朗読という行為の本質」をどう伝えていくかを考えました。


朗読教室の皆さまと会えないつらい期間でしたが、思考を深めるには、とても大事な時間だったと思います。


再開したレッスンでは、(読み上げ行為とはまったく異なる)「新しい朗読」を皆で共有する方法を探るようになりました。その試行錯誤のすべてが、2025年の夏に出版した拙著『新しい朗読ー語り手の体験を生きる読書法』へと繋がっています。



■ 『新しい朗読ー語り手の体験を生きる読書法』から、さらに先へ


『新しい朗読ー語り手の体験を生きる読書法』という本は、詩や短編小説を対象とした朗読についてまとめたものです。


同年秋になると、「エッセイや物語の朗読についても、しっかり考察しておきたい」と考えるようになりました。(12月にブログ記事をアップロードしたので、ご興味があればお読みください)


この作業で、思いがけない嬉しい収穫がありました。読書領域・上演領域という言葉が生まれてきてくれたのです。読書領域とは、読書そのものの領域。上演領域とは、聞き手や観客に向けた上演行為が属する領域を指します。



■ 上演領域に「朗読」は存在しない


上演領域や、そこに属する音声表現行為を否定しているわけではありません。あくまでも「文学作品という構造」と「上演領域」の相性の問題であり、『①理論』で書いたように、「朗読は読書領域に置くのが自然」だということです。


文学作品の語り手の言葉には、すでに体験が内包されています。

ですから、上演領域に持ち込むならば、言葉と音声の調和は必ず乱れます。その不調和は、音声表現を行う人の身体に刻まれていきます。聞き手にも手渡されます。


もちろん、誰にも悪気はありません。不調和そのものもが悪いわけでもない。不調和に気づかない構造にこそ問題があるのでしょう。「文学作品を上演台本として扱う行為」はおすすめできませんし、それを「朗読」と呼ぶことは適切ではないと考えます。



◾️ 小説誕生以降の文学作品と朗読


明治時代、小説という形式の誕生によって文学は大きく変わりましたが、朗読は、読み上げる行為のままに留まりました。その結果、文学の変容に対応できず、読書行為の中心は「黙読」へと移っていきました。


朗読は、文学作品を対象とし、その過程で音声を伴う行為です。


本来であれば、この変化に合わせて朗読も変容する必要がありました。しかし、「読み上げ行為としての朗読」がそのまま残り、そこに「表現する喜び」が重なったことで、文学作品を対象としながらも、上演を目的とするものが「朗読」だというイメージが広がっていったのでしょう。


しかし、それでは文学作品の構造とは合いません。文学作品を対象とする以上、朗読の再定義は必然です。


朗読は、「読み上げる行為」から「語り手の体験に接近しようとする体験行為」へと変容することで、はじめて「小説」誕生以降の文学形式にふさわしい読書行為となります。



■ 「朗読」は、言葉と体験の調和を目指す


朗読は、「語り手の言葉」と「読者の体験」の調和を目指す営みです。


朗読者は、「語り手の体験と自分の体験はズレている」という事実に気づくところを起点とし、そのズレを少しずつ縮めていきます。言葉と体験は、調和へと向かっていきます。


読書領域には、上演領域でいう解釈も表現もありません。そこには、自由な試行錯誤と理解の深化があるだけです。


ときには一人で、ときには皆で、仮説と検証の往還を愉しんでいるうちに、いつの間にか、脳はふかふかに耕され、少しずつ新しい回路が芽生え、そして心は満ちていきます。


よく、仕事が忙しくて本を読む時間がないという声を聞きます。でも、余裕がないときこそ、詩や短編小説の朗読をおすすめします。


「言葉と体験の調和」を目指す時間は、自分が整う時間なのでしょう。虚構世界から現実世界に戻ったとき、穏やかに仕事をこなしている自分に出会えるかもしれません。



■ 脳の成長


朗読という営みで、じわじわと語り手に近づいていくと、脳内には新たな回路が少しずつ敷設されていきます。

いよいよ語り手に接近し、作品世界を自分ごととして生きるようになると、語り手にとっての「新しい体験」は、読者にとっても「新しい体験」となります。

脳は、新たな体験を悦びながら、おおらかに成長していくのでしょう。



■ まとめ


ご紹介したい言葉があります。


「無知は罪なことではない。真の罪は何も学ばぬことだ。知ったつもりになって探究を怠る。これほど愚かなことはない。」


「わからないことをわかっていないと、わからないことはわかりません。」


一つ目は、惣領冬実さんの作品でチェーザレが語る言葉。二つ目は、テレビドラマ『テミスの不確かな法定』で主人公の裁判官が何度も語る言葉です。


私たちは、安易に、知ったつもり、わかったつもりになりがちです。そんな自分に気づかせてくれるのが、文学なのではないでしょうか。


その力を感じている方には、ぜひ「朗読」という読書法を試してほしいと思います。


朗読を通して語り手に近づく過程で、「わからないとわかる」ことがどんどん増えていきます。でも、大丈夫。それを面白がっているうちに、いろいろなことが形を変えながら少しずつ腑に落ちるようになってきます。


朗読は、「学ぶ愉しさ」と「新しい自分に出逢う悦び」を私たちにプレゼントしてくれます。朗読を通して、文学の豊かさをたっぷり受け取れると素敵ですね。


あなたもどうぞご一緒ください。この新しい読書法に慣れるまで、サロンドマリコがそっと伴走します。のんびりと愉しんでまいりましょう。




※関連記事

「文学作品の幸せな受け取りかた:『朗読』という読書法の提案①②」



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