文学作品の幸せな受け取りかた:「朗読」という読書法の提案①
- 3月7日
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更新日:9 時間前

(近代以降の)文学作品を、私たちはどのように受け取るのが適切なのでしょうか。
サロンドマリコでは、「朗読」という読書行為を提案しています。
今回は、「朗読」とはどのような行為なのかを、あらためて共有することから始めましょう。
文字言語のみで虚構世界を立ち上げようとする文学作品について考えます。
■ 朗読が存在するのは、上演領域か?それとも読書領域か?
朗読は、文学作品を対象とし、音声を伴います。
これは、多くの人が自然に共有できることだと思います。しかし、問題はここからです。
「音声を伴う」ということだけで、上演領域を思い浮かべる人が多いのです。
「上演領域に朗読」という配置は、はたして本当に適切なのでしょうか?
文学作品は、文字言語のみで完結する構造を持ちます。その点で、音声によって完成する上演台本とは大きく異なります。したがって、文学作品を上演領域で扱おうとすると、構造が噛み合いません。
文学作品が読書領域に属する以上、朗読もまた読書領域に置くのが自然です。すると、音声と言葉の関係は調和する方向へと向かいます。
■ 朗読をどう定義するか?
【朗読とは、(文学作品の)語り手の追体験を試みる体験行為である】
これが、「朗読とはどのようなものか」を共有するために妥当な定義ではないでしょうか。このように定義すると、朗読は、「体験(音声を含む)と言葉の調和」を目指す営みとなります。
⚫︎ 朗読って、文字言語を創意工夫して読み上げる音読行為ではないの?
⚫︎ 朗読って、作品の解釈を反映させた音声表現行為ではないの?
これらは、どちらも「(音声を得て完成する)上演台本」を対象とする「表現行為」と呼ぶのが適当でしょう。朗読ではありません。
そして、このような「表現行為の成立する場」が、上演領域です。
■ 朗読の音声とは?:虚構体験に伴って表出する身体反応
「朗読」の音声は、上演領域における「音声表現」の音声のように、意図して出すものではありません。語り手の追体験を試みる過程で、自然に出るものです。
つまり、朗読の音声とは、虚構世界を生きようとする体験に伴って表出する「(世界を認知する)身体の反応」なのです。
■ 朗読の音声とは?:朗読者の虚構体験を他の読者に開く
このように、「朗読の音声」は「虚構体験」と直結しています。
すなわち、ある朗読者の音声を共有した他の読者は、その朗読者の虚構体験に触れることになります。
だからこそ、朗読の音声は、一人の読書では到達できない作品受容の深みへと、私たちを導く可能性を持つのでしょう。
■ 朗読の音声を共有する場
朗読者の音声を仲間たちが共有する場では、思いがけない気づきや違和感が生まれます。
それは、豊かな話し合いが生まれるきっかけとなります。話し合うことで、語り手にさらに近づけるかもしれません。
つまり、朗読という「体験と言葉の調和」を目指す営みの中で、音声は貴重な手段となるのです。
■ まとめ
朗読は、文字言語が内包する「語り手の体験」に、皆で少しずつ近づいていく試みです。
頭だけではなく身体も使い、個人ではなく共同体で取り組みます。
目の前に並ぶ言葉を解釈して済ませるのではなく、そこを出発点にして、皆で「言葉の生成」に立ち会っていくーー
「朗読」とは、文学作品の幸せな受け取り方を、愉しく探究し続ける「読書行為」なのです。
※関連ブログ
「文学作品の幸せな受け取りかた:『朗読』という読書法の提案②③」




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