「朗読は、音声を伴う読書」だということ
更新日:5 時間前

文字言語だけで虚構の作品世界を立ち上げようとする文学作品を対象とする朗読は、私たちを育ててくれる営みだと思っています。
文学作品の言葉とはどのようなものなのか。アナウンス原稿や上演台本の言葉とはどう異なるのか。
この考察を疎かにしたまま、従来の朗読、つまり、文学作品を音声で届ける行為を「朗読」と呼び続けることに、大きな違和感を抱いています。
わたしたちが対象とする言葉は、語り手の体験とともに生まれる言葉です。それは、「認知(思考)の言葉」といえるでしょう。その言葉は、「聞き手に届けるもの、伝えるもの」として扱うことで「伝達の言葉」に変質し、その結果、言葉と体験はズレてしまいます。
このことに気づかず、「上手に読めた」「うまく伝わった」という経験を重ねてしまうから、言葉と体験とのズレに気づく感覚が鈍っていくのかもしれません。
文学作品を音声で届けようとする行為は、いったい誰を幸せにするのでしょうか。
朗読者の心を育てるはずの朗読が、その人自身の感性を脅かすものになってしまう。 それを、「いろんな朗読があっていい」で済ませてはいけないのだろうと思います。
朗読は、作品世界を自分ごととして生きようとする読書――音声を伴う読書行為です。自分ごととして生きたとき、その体験は、自ずと仲間に届きます。
文学作品を音声で届ける行為を、サロンドマリコはおすすめしていません。
文学作品を幸せに享受する読書法となり得る「朗読」を守りたい。そして、なにより、「朗読者の感性」を守りたい。そう願うと、従来の朗読を批判せざるを得なくなるのです。
音声無しに虚構世界を立ち上げる文学の言葉とは、いったいどういうものなのか。その問いと向き合ううちに、私の朗読観は、180度変わっていました。
文学作品には、人を変える力があります。だからこそ、その言葉をどう扱うのか、私たちはもっと真剣に、そして慎重に考えたほうがいいのかもしれません。
このブログ記事が、皆さんにとって、立ち止まって朗読を考えてみるきっかけになればうれしいです。




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