朗読理論

積み重ねてきた理論を一つの体系としてまとめました。朗読を、特定の音声を実現するための行為ではなく、語り手の体験に近づこうとする読書行為として捉えます。脳の神経回路全体の構造変化は、理論の中心に据えすぎず、可能性の一つと位置づけました。
朗読理論
語り手の体験を生きる読書法
1、朗読が対象とする文学作品
朗読という読書法が対象とするのは、文学作品です。ここでいう文学作品とは、以下のような性質を持つこととします。
⚫︎ 文字言語のみで虚構の作品世界を立ち上げようとする
⚫︎ 作者は、作品世界を生きて観察する存在として、語り手を設定する
⚫︎ その語り手の体験とともに生まれ出る言葉で構成されている(3 で具体的に説明します)
読者が、語り手を、いまの自分では理解が追いつかない他者として認識し、わかりたいと切望するとき、朗読は、その文学作品を幸せに享受する読書法として機能します。そして、その作品は、読者にとってかけがえのないものとなります。
2、朗読とは何か
朗読を、文学作品の語り手の体験と同じ体験を試みる、音声を伴う読書行為であると定義します。
詩や小説などの文学作品を読むとき、私たちは文字言語を手がかりにして、自分なりの虚構の世界を思い描きます。朗読という読書法は、ここを出発点として、自分を少しずつ更新し、ときには仲間と協力し、語り手と同じように作品世界を観察すること、語り手と同じように作品世界を体験することを試みます。
そのために、読者は各々、語り手の体験について仮説を立て、自分の身体と知覚を使って検証します。
語り手はこういう場所にいて、このようなものごとに、こんなふうに知覚を使っている。読者は、こうした仮説を立てて、自分の身体と知覚で体験してみるのです。
最初は、語り手の言葉を再現しようとしたり、そんな自分に戸惑い言葉につまったりするかもしれませんが、慣れてくると、自分の体験と調和する自分だけの言葉が、音声を伴って生まれ出るようになります。体験・音声・言葉が調和している身体には心が宿りますが、その心から湧き出る感情や心情は、音声に反映されて、響きとなって現れています。
語り手が他者である以上、読者の体験と語り手の体験は、どこかでズレます。その「どこか」は、すべての読者にとって同じ箇所かもしれません。異なる場合もあり得るでしょう。確かなのは、読者一人ひとりに関しても語り手に関しても、それぞれの体験・音声・言葉は、本来、調和しているということです。
したがって、読者の体験と語り手の体験がズレた箇所で、読者自身の言葉、もしくは、音声の響きが、語り手のものとズレます。
読者は、このズレを手がかりにして、言葉や響きに反映される体験そのものの違いを推察し、仮説を立て直します。その新たな仮説を、自分の身体と知覚を使ってあらためて検証します。
仮説と検証を往還する過程で生まれる試行錯誤を面白がり、ときには仲間の力も借りて、時間をかけて徐々に語り手の体験に近づいていきます。
語り手の体験・音声・言葉の調和に、自分の体験・音声・言葉の調和が重なっているーーそんなふうに直感する時が訪れるかもしれません。
朗読は、読者が語り手という他者と出会い、その語り手が生きている虚構の作品世界を「自分ごととして」生きようとする読書法です。
まだわからないことを失敗と捉えて、いまの自分で急いでわかったことにするのではなく、自分を少しずつ更新しながら、わからないことを時間をかけて徐々にわかっていこうとします。
読者の認知のありようが更新され続ける。それが、朗読という読書法の特徴といえます。
3.語り手の体験と言葉
文学作品を構成するのは、語り手から、体験とともに自然に生まれ出る言葉、すなわち、どこにいて、何を見て、何を感じ、どのように世界を認知(認識)しているのかといった語り手の体験と直結している言葉です。
だからこそ、読者は、その言葉を手がかりにして、語り手の体験に近づくことができます。語り手の言葉を自分なりに解釈して意味を確定するのではなく、言葉と直結している体験に近づこうと試みるのです。
登場人物の台詞も、語り手が聞くという体験をしているものです。したがって、語り手の体験との関係のなかで捉えます。
なお、語り手の感情や心情は、語り手の心から湧いてくるものです。読者が考えてつくるものではありません。そして、語り手の心は、読者の体験が語り手の言葉と調和したとき、読者自身の身体に自然と宿ります。
4.仮説と検証――語り手の体験に近づく
朗読では、語り手の言葉を手がかりに、語り手の体験について仮説を立てます。そして、自分の身体と知覚を使って、その仮説を検証します。身体や知覚と直結している言葉だからこそ、体験を推察し仮説を立てられるし、また、その検証も可能となるのです。
仮説を立てる
まず作品を通読し、語り手が生きている虚構の世界を想像します。
再読以降は、作品の冒頭から一つひとつの語りについて、語り手はどこにいて、何を知覚しているのだろうかと、言葉が生まれる体験を推察し、仮説を立てます。
ここで大事なのは、この仮説を確定したものとして扱わないこと。いまの自分が受け取ったものを自分の答えだと決めつけず、検証の出発点となる「仮説」として扱います。
身体と知覚を使って検証する
検証は、脳内でイメージした虚構世界を、目の前の現実世界にぼんやり映し出して見ようとすることから始めます。二重写しに見るような感覚で、焦らずにゆっくりと進めます。
なんとなく見えてきたと感じたら、その感覚こそが宝物です。眼前にぼんやりと見えている虚構世界に、そっと自分の身体を置きます。
自分の位置を確認したら、仮説に沿うように、身体と知覚のありようを実際に試してみます。たとえば、上を向いて対象物をふんわり眺めたり、ゆっくり首を動かしながら辺りを見渡したり、というふうに自分の身体と五感を実際に使ってみます。
その体験とともにどのような音声・言葉が自分から生まれ出るのかは、生まれ出る瞬間まで自分でもわかりません。
この、体験するという試みに慣れないうちは、語り手の言葉を再現してしまうかもしれません。何度も試みを繰り返すうちに、だんだん慣れてきて、体験に集中できるようになります。自分だけの言葉が自然に生まれ出ているーーそう実感するときが訪れます。自分の体験・音声・言葉が調和しているのです。まずは、その心地良さを味わいましょう。
次に、自分から生まれ出た自分の言葉と、語り手の言葉とを照らし合わせます。すると、自分の体験と語り手の体験との距離を、感じ取ることができます。
言葉がズレているときには、体験を見直す機会となります。
言葉が一致していたとしても、体験まで一致しているとは限りません。体験には、言葉だけでは捉えきれない繊細なバリエーションがあり、音声の響きに反映されます。朗読の音声を聞いてくれた仲間も、「体験のズレ」を感じ取れなかったときは、そのまま進めます。次の語り、またその次の語りへと仮説・検証を進めていくと、どこかで違和感が生じます。そうなったときに、また元に戻って検討すればいいのです。
仮説を立て直し、検証する それを繰り返す
自分の体験と語り手の体験との距離を感じ取ったら、その距離を縮める方向で仮説を立て直し、あらためて検証します。身体のありようや知覚の使い方を少しずらしたり、言葉を少し変えたりしながら、新たな体験・音声・言葉の調和が生まれるのをたのしみます。
朗読は、共同体の読書です。仲間の体験に耳を傾け、気づいたことがあれば、柔軟に取り入れてみるのも有効です。
作品を読み進めるなかで、後半で出逢った言葉によって、前半の言葉の受け取り方が変わることもあります。それに伴い、妥当だと思っていた仮説が変わることもあります。このように、仮説と検証は一度で終わるものではありません。作品全体を通して繰り返されます。読者は、時間をかけて徐々に語り手の体験に近づいていきます。
5.体験と言葉の変化、そして認知の変化
朗読という読書法において、読者は、いまの自分の体験・音声・言葉が調和している状態を出発点とします。そして、語り手の体験に近づこうとして、身体のありようや知覚の使い方をずらしたり、言葉を変えたりすることで、それまでとは異なる、新たな体験・音声・言葉の調和に出会っていきます。
体験・音声・言葉の調和のバリエーションが増えるとは、認知のありようが多様になることに他なりません。
朗読という読書行為の試行錯誤のなかで、脳内では、眠っていた神経回路がふっと目覚めたり、新たな回路がかすかにつながったりしているイメージです。
それは、既存の神経回路だけで情報を処理して、すぐに知識を得ようとする行為とは異なります。語り手の体験に近づこうと試行錯誤することを通して、自分の神経回路そのものが、揺らぎながら少しずつ変わり続けているのでしょう。
朗読という読書法には、こうした変化をもたらす意義があると考えます。
ー脳の神経回路全体の構造変化という可能性についてー
仮説と検証の往還を面白がっているうちに、読者には、いよいよ語り手の言葉と自分自身の体験が調和したと感じられるときが訪れます。語り手の隣でともに作品世界を観察しているかのように、作品世界の旅をたのしめるようになります。
そのような幸せな旅のなかで、読者は、ときに、大きな新しい体験をすることがあります。それは、作品の後半やクライマックスで、語り手自身が、認知のありようが変わるような新しい体験をする場合です。その体験は、読者の神経回路の構造全体の変化につながる可能性を持ちます。
ただし、これはすべての作品に当てはまる条件ではありません。また、大きな変化が起こることだけが、朗読の意義なのでもありません。
朗読のスタートから続く小さな新しい体験とともに、読者の認知のありようが少しずつ更新されていく。そのこと自体が大きな意義を持つことに変わりはないのです。
6.新しい体験を捉える手がかり
読者が、朗読の過程で試みる小さな新しい体験は、いつも同じ形で現れるわけではありません。たとえば次のようなものがあります。
⚫︎ 体験をずらすことで、生まれ出る言葉が変化する
⚫︎ 体験をずらすことで、生まれ出る言葉が同じであっても音声が変化する
⚫︎ 体験をずらした際、その体験に慣れていないため、言葉がすぐには出てこずに焦る
⚫︎ 言葉を変えた際、身体と知覚がすんなりついていかないため、フリーズする。
いずれも、読者の体験が変化していることを捉える手がかりとなります。
語り手と同じ言葉が生まれたことや、音声が変化したことだけで、読者の体験が語り手の体験に近づいたと判断できるわけではありません。作品全体を通した仮説と検証のなかで、その変化を捉える必要があります。
朗読は、誰かに決められた体験や音声を目指す読書法ではありません。読者は、自分自身の体験とともに、自分の身体から、どのような言葉や音声が生まれ出るのかをていねいに観測し、言葉や音声に反映される体験そのものに注目します。語り手の体験に接近することを目指しますが、もっとも大切にするのは、その過程です。
7.語り手に接近することと、学びの継続
朗読の試行錯誤を面白がっていると、いつの間にか読者は、語り手の体験に接近しています。それに伴い、双方の認知のありようも接近した状態になります。すると読者は、語り手の隣でともに作品世界を観察するような旅を楽しめるようになります。
ここで大切なのは、読者と語り手の認知のありようを一致させたり接近させたりすること自体が、朗読の目的なのではないということです。朗読という読書法で文学作品と向き合うなかで、読者が、自分の認知のありようを少しずつ更新していくことこそが肝要なのです。その過程は悦びに満ちています。
語り手との幸せな旅の実感は、しばらくすると、新たな気づきが生まれたり、ふと身体に違和感が出たりして、揺らぐことがあります。そんなときは、躊躇なく、仮説の再検討を始めます。
朗読の学びに終わりはありません。唯一の到達点や決められた時間もありません。新しい体験が身体に馴染むのに、数日、もしくは数週間、ときには数ヶ月以上を要することもあります。
朗読は、文学作品との出逢いを通して、新たな身体のありよう、新たな知覚の使い方、新たな認知のありように出逢い続ける読書法なのです。
8.個々の読者と、共通する構造
読者は一人ひとり、これまでの経験、記憶、認知のありよう、身体や知覚の使い方が異なります。そのため、仮説の立て方も、新しい体験の現れ方も異なります。つまり、朗読という読書法で同じ作品に取り組むとしても、すべての読者が同じ試行錯誤の道のりを進むわけではないのです。
しかし、個々の読者の道筋が異なることと、朗読に共通する構造があることは矛盾しません。
朗読という読書行為に共通するのは、いまの自分では理解の届かない「他者としての語り手」と出会い、自分の認知のありようを徐々に更新しながら、時間をかけて語り手に近づいていくという構造です。読者は、仮説と検証の往還のなかで、小さな新しい体験を面白がり、体験と音声、言葉が調和する悦びを味わいます。
共同体で取り組む際にも、この構造を皆で共有しながら、それぞれに異なる試行錯誤を持ち寄ります。自分一人では思いつかなかった仮説や、異なる体験の可能性に出逢うこともあります。全員が同じ変化をするのではありません。一人ひとりが、自らの体験を通して学びを深めていきます。
9.理論全体のまとめ
ここまでの議論を、一つの流れとしてまとめます。
出発点:語り手という、いまの自分では理解が届かない他者
語り手を、いまの自分の認知のありようで、すぐにわかったことにしない。「まだわからない」という立ち位置を出発点に、時間をかけて徐々に理解を深めていく。
方法:仮説と検証の往還
語り手の言葉を手がかりにすると、その体験についての仮説が立つ。自らの身体と五感を使って検証し、語り手と自分の距離を感じ取ろうとする。何度でも仮説を立て直し、身体のありようや知覚の使い方を少しずらしてみたり、言葉を変えてみたりしながら検証を重ねる。
過程:小さな新しい体験の連続
仮説と検証の過程で生まれる、小さな新しい体験を面白がる。体験・音声・言葉は、調和を保ちながら少しずつ形を変えていく。そして、体験・音声・言葉の調和のバリエーションが増えていく。同時に、認知のありようも多様化していく。
変化:作品受容の変化
語り手の体験と認知のありように接近すると、語り手の隣でともに作品世界を観察するような旅をたのしめるようになる。
さらなる可能性:脳の神経回路全体の構造変化
後半やクライマックスに、語り手の新しい体験が用意されている作品の場合、その体験が、読者にとっても大きな新しい体験となり、神経回路全体の構造変化につながる可能性がある。
この流れ全体を支えているのは、朗読を、語り手の体験と同じ体験を試みる、音声を伴う読書行為として捉える視点です。
朗読という読書法の価値は、特定の音声を実現することや、決められた解釈に到達することにあるのではありません。文学作品の語り手を、いまの自分では理解できない他者として捉え、理解したいと切望し、その切望を推進力として、語り手の体験に近づこうと面白がりながら試行錯誤すること。その過程で小さな新しい体験を重ね、自分の認知のありようを少しずつ更新していくことにあります。
文学作品の読者が、自分と出会い直していく。これこそが、朗読という読書法が開く可能性なのです。




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