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「わからない」とどう付き合うか

7月29日
読了時間: 8分

更新日:8月29日



◾️「わからない」を、どう捉えているか?


「わからない」のはダメなこと。早く理解しなければならない。


私たちは、このような環境で、「すぐにわかったことにする」習慣を、身につけたのかもしれません。


でも、「すぐにはわからないこと」まで、すぐに「わかったこと」にするのは、はたして幸せなことなのでしょうか。


「わからない」から、他者に出逢えます。

「わからない」から、世界が広がります。


じつは、「わからない」のはダメなことなんかじゃなくて、とてもステキで大事なことだとは思いませんか?



◾️「わからない」と、どう付き合ってる?


幼い頃は、「わからない」が当たり前です。


でも、「わからないのはダメ」という環境で育つうちに、次第に、「わからないのは恥ずかしい」とか「わからないとバカにされる」といった不安を抱くようになるのではないでしょうか。


「わからない状態」を、恥ずかしく思ったり、苦痛に感じたりするからこそ、無意識のうちに、それを避けるようになるのでしょう。


具体的には、すぐにはわかるはずのない「わからないこと」まで、「すぐにわかる」かたちに都合よく変えて「わかったこと」にするか、もしくは、「自分には関係のない、どうでもいいこと」として遠ざけるか。その二択になっているように感じます。


「すぐにはわからないこと」をすぐに「わかったこと」にすると、どうしたってズレが生じます。そのズレに、自分ではなかなか気づくことができません。



◾️「わからない」との理想の付き合いかたは?


「すぐにはわからないこと」を、自分に都合よく「すぐわかること」に形を変えて受け取り、「わかったこと」にするのではなく、そのままのかたちで受け取り続け、時間をかけて、少しずつわかっていこうとする。そういう付き合いかたの選択肢もあります。


この付き合いかたができたなら、少しずつかもしれないけれど「わかる」ようになっていきます。そして、わかるようになった分だけ、いまの自分よりも広い視野と高い視座を持つ「新しい自分」に出会えるかもしれません。


ただ「そういう付き合いかたができたらいいな」と思っても、思うようには進まないのがやっかいなところです。


私たちは、意識的に、「すぐにはわからないこと」を「すぐにわかること」に変えて受け取っているわけではありません。おそらく私たちは、わからない状態を避け続けた結果、「わからない」という事実すらわからない状態になっているのでしょう。


だから、「わかったつもりになっているだけで、本当はわかっていないのかもしれないね」という言葉を耳にしただけで、「わかっている私を否定された」と、すぐに感情的になってしまうのかもしれません。


でも、やはり、「わからない」との付き合いかたを見直してみたいと感じている方には、『朗読』という読書法をおすすめしたいと思います。


文学作品は、だれもが「すぐにはわからない」とわかっているものです。だからこそ、朗読の時間は、「わからない」との付き合いかたを、身体ごと練習する場になるのでしょう。



◾️文学作品の朗読について


文学作品は、「わからない状態」に安心して身を置く機会を、私たち読者に手渡してくれます。そして朗読は、その「わからない状態」に身を置き続けながら、すぐにはわからないことを、ゆっくりとわかっていく読書法です。


他人の頭の中や心の中がわからないように、文学作品の語り手の頭の中も心の中も、最初はわかりません。


でも、語り手の言葉は、(他者であるはずの)語り手の体験を、読者が自分自身の体験にしていくことを促す特殊な言葉です。


語り手の言葉が、その体験と直結する「(世界をどう受け取っているかという)認知の言葉」だからこそ、私たちは、仮説と検証を往還する朗読という読書法で、語り手に接近していくことができます。


最初はわからなかった語り手の頭の中や心の中が、徐々にわかるようになっていくのです。


ただし、「私にはまだわからない」を前提に、試行錯誤という脳の耕しを重ねたときに限ります。 朗読は、「語り手のことは、私にはまだわからない」という場所からしか始まらないのです。



◾️「私にはわかる」が前提のとき


「すぐにはわからない」のが文学作品だとわかっていても、潜在意識に「わからないのは失敗」と強く刻まれていると、無意識のうちに、既存の回路で処理できる形に置き換えて、わかったことにしがちです。


そうなると、音声は、そのわかった(つもりの)ことを反映させ、聞き手に届けるための手段となってしまいます。これは、上演領域における音声のありかたです。


あるいは、「わからない」という現実を、無意識のうちに遠ざけようとして、「いまは忙しいから、朗読している余裕はない」とか、「自分には合わない作品だ」「意味不明な作品だ」とか、もっともらしい理由をつくり、自分を納得させてしまいます。


これでは、そもそも朗読の時間そのものが始まらないかもしれません。



◾️「私にはまだわからない」が前提のとき


一方で、「私にはまだわからない」を前提にできると、文学作品を「文学作品として」受け取る余地ができます。


朗読を続けるうちに、「わからないこと」は、ときに「もっとわからない」様相も見せながら、それでも少しずつ、「わかること」へと変わっていきます。


この過程で生まれる自分だけの試行錯誤や、仲間とともに味わう試行錯誤が、朗読の醍醐味です。その一つひとつをたのしんでいるうちに、徐々に、語り手という他者との距離が縮まっていきます。


じゅうぶんに試行錯誤をした後に、語り手が生きている作品世界を「自分ごととして」生きていると実感できて、そこでようやく、「あ、わかったかもしれない」と思えるようになるのでしょう。



◾️試行錯誤について


【語り手の体験と同じ体験を試みる行為】


これが、朗読の定義です。認知の言葉を手がかりにして、語り手の体験について仮説を立てたら、次に、自分の身体を使って検証します。


すると、自分の体験と直結した認知の言葉が生まれます。他者である語り手の体験は、すぐにはわかりません。ですから、語り手の言葉とは異なっているのが自然です。


そのとき、「へぇ、わたしはこのような場面では、こう感じて、こう思うんだ」等々、自分の体験に気づくことができます。まさにここで、語り手との距離が見えてきます。ここが試行錯誤の出発点なのです。試行錯誤を重ねるたびに、少しずつ語り手との距離は縮まっていきます。


仮説と検証を往還する中で生まれる試行錯誤は、脳を耕し、「柔らかな土壌」を準備するのでしょう。そこに、新しい認知回路の誕生を待つ小さな芽が、次々に生まれてくる。このようなイメージです。


でも、もうわかっている、という前提に立っていると、朗読講座で試行錯誤の例を話しても、「なぜ、わざわざそんなことをする必要があるの?」「まだ先に進まないの?」と、じれったく感じてしまうかもしれません。


自分自身を振り返ってみましょう。


「私は一生懸命に考えた。だから、語り手の体験がわかった。あとは体験したら、語り手と同じ言葉が出てくる」ーーそんなふうになっていませんか?


語り手と自分との距離もわからず、試行錯誤もせず、他者の体験に近づけるのでしょうか。「わかった」のではなく、既存の回路だけを使って「わかったつもり」になっているのではないでしょうか。


「じゃあ、試行錯誤ってどうすればいいの?」と戸惑って、そのときはじめて、虚構世界のイメージをさらに明確にしていく必要性を実感し、そして、試行錯誤する意味を見いだしていけるのだと思うのです。


戸惑いながら少しずつ試行錯誤することに慣れていって、やがて、「あ、わたし、試行錯誤をたのしんでる」と、ふと気づく。そんな流れなのでしょう。



◾️環境をデザインする


「理解を急がせる環境」の中で、「すぐわかろうとする」ことが習慣になっていると、わからないことがわからなくなって当たり前だと思います。「わからないことが、わからないのかも…」と気づいたら、その瞬間から、私たちは変わり始めるのかもしれません。


まずは、「理解を急がせる環境」を離れる時間をつくってみませんか?


朗読が属する「読書領域」は、理解をせかされず、正解を求められず、安心して、自分のペースでのびのびと過ごせる環境です。


そして朗読は、「わからなさ」と付き合い続ける読書法です。朗読を通して、「わかったことにせず、投げ出さず、気負うことなく考え続ける」ことを、身体で習得できると確信しています。



◾️まとめ


私たちは、ある時点からずっと、ゴールを目指し、目標を掲げて生きてきたのではないでしょうか?


読書領域には、達成すべきゴールや目標などありません。そこにあるのは、言葉と体験の調和がもたらす「心地良さ」、そして、語り手との距離が少しずつ近づいていく「悦び」です。


そこでは、幼いころのように、自由に試行錯誤をたのしむことができます。だからこそ、幾つになっても、新しい回路が生まれるのかもしれません。


思考停止にならずに考え続ける習慣は、新しいことに対して、自らを閉じずに、逃げずに、開き続けることにつながるのでしょう。


もちろん、ときには閉じてもいいし、逃げてもいいのだと思います。現実世界では、そのほうが上手くいくことが多いのかもしれません。でも、「考えないことを自分で選んでいる」という自覚は、私たちにとってずいぶん大切なのだと感じています。

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