朗読の地図ーー読書領域における「新しい朗読」の提案
- 2025年12月27日
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更新日:1月11日

長い間、「朗読とは音声表現行為だ」と捉えられてきました。文学作品を声で表現して他者に届けるイメージです。
しかし、文学が属する読書領域に「表現」という言葉を持ち込むとき、そこには、読書や文学の本質を壊しかねない「危うさ」が生まれるのではないでしょうか。
だからこそ、「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」は上演領域(他者に差し出す行為の場)に戻し、読書領域には「新しい朗読(語り手の追体験を試みる体験行為)」を据えるーーこの整理が必要なのかもしれません。
もちろん、これは従来の朗読を否定するものではありません。それぞれが最も生きる領域を探すチャレンジです。
1.読書と「従来の朗読」:何が問題なのか?
読書領域に、「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」が持ち込まれた結果、何が起きているのでしょうか。
① 主客の逆転という危うさ
本来、読書の主役は「作品(語り手)」です。作品を大事にしてこそ、読者である私たちは、豊かな「読書体験」を享受できます。
しかし、そこに「表現」という言葉を持ち出した途端、意識の主役は「自分(読み手)」になります。「どう表現するか」という自我が、無意識のうちに前に出てしまうのでしょう。
いつの間にか文学作品は、上演台本になっています。「ここで間をとる」「テンポよく」「やわらかな表情で」等々、表現のための言葉が当たり前のように書き込まれるのです。
②「体験」の純度を濁らせる危うさ
読書領域において、体験と表現は両立しません。体験の最中に「表現」を意識することは不可能です。
「無意識的な表現は体験と同時に起きるのでは?」と感じるかもしれませんが、その場合、当事者にとって、それは体験以外の何ものでもありません。受け取る側が、表現と捉えるというだけの話でしょう。
つまり、「表現」という言葉を受け入れることは、読者にとって最も大切であるはずの「体験」を、知らぬ間に軽んじてしまうことに繋がりかねないのです。
③「答え」をもらうことに慣れる危うさ
読書とは、読者一人ひとりが、時間をかけて言葉と向き合い、奥行きのある世界を歩く行為なのでしょう。自分の足で歩くからこそ、かけがえのない体験となります。
しかし、「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」は、読み手を「与える側」、聞き手を「受け取る側」に固定します。
結果として聞き手は、感動を与えてもらう「観客」になりがちです。つまり、読者であることを手放しておきながら、読書をした気になり、文学作品がわかった気になるーーそのような構造が、「従来の朗読」では、どうしても生まれてしまうのです。
2.「従来の朗読」の正体は?
「従来の朗読」と相性が良いのは、上演領域です。表現行為なのですから当然でしょう。上演領域において真価を発揮する「従来の朗読」は、じつは、「朗読」とは異なる名前を、すでに持っています。
朗読劇、読み語り、語り、さまざまな語り芸、ナレーション。どれも、創意工夫を凝らした音声表現は、聞き手に大きな感動を与え、一期一会の素晴らしい空間を創造します。
ひょっとすると、上演領域における表現行為への憧れが、読書領域にも「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」を持ち込んだのかもしれません。
しかし、読書領域と上演領域では、「扱う言葉」が違います。
上演領域では、上演台本やナレーション原稿などを扱います。これらは、音声で聞き手に届く文章です。つまり、文字の状態では未完成の言葉が、表現者の音声を得ることで、聞き手に届く言葉として完成します。
一方、読書領域で扱うのは、すでに完成した言葉です。表現者の音声を伴って完成する上演領域の言葉とは違い、すでに、語り手(詩や小説では虚構世界の住人・エッセイでは著者)の音声を内包しています。
「従来の朗読」を、読書領域において受け入れ続けるのが妥当かというと、それは、これまでにみてきた危うさを踏まえると、立ち止まって考える必要があるのではないでしょうか。
3.読書領域に望まれる朗読とは?:「新しい朗読」
詩も小説も物語もエッセイも、すでに、語り手の音声を内包しています。そもそも「従来の朗読」とは、扱う前提が異なる言葉なのかもしれません。
では、読書領域に、読者の音声は必要ないのでしょうか?
「黙読」がベストな選択なのでしょうか?
たしかに、現実世界の聞き手に向けて作り上げる「表現する音声」は、言葉がもともと内包している音声を、歪めてしまう可能性があり、その点で、慎重に扱われるべきものでしょう。
しかし、虚構の作品世界を語り手とともに生きようとする際に「体験に伴って表出する音声」はどうでしょうか?
いま、「新しい朗読」という読書法を学ぶ仲間たちから、「体験に伴って表出する音声」が、続々と生まれています。
その音声は、同じように虚構世界を生きようとしている読者と共有されたとき、各々の体験を震わせ、さらに豊かなものに育てる可能性を持っています。
このようにみてくると、読書領域に望まれるのは、文学作品が「消費されるコンテンツ」になりがちな「従来の朗読」ではなく、体験を伴う読書行為である「新しい朗読」だと考えられないでしょうか。
この新しい朗読は、「黙読」という深遠な、しかし閉じた読書行為を、開く手段になり得ます。「新しい朗読」で表出した音声を手がかりに話し合えば、より多くの読者が、「文学体験の悦び」を享受できるようになることでしょう。
4.まとめ
「この文学作品の世界を表現したい」「この文学作品から得た感動を届けたい」という思い、そして、表現するという行為。これらは、とても自然で素晴らしいものです。
ただ、「朗読」という名で、読書領域に「表現」という行為を安易に持ち込み、表現行為と読書の関係を見逃してきたことには、問題があるように思われます。
読書領域は、他者に向かう意識を拒む場なのかもしれません。だからこそ、没入するという体験の中で、文学作品を「受け取る力」が身につきます。語り手と対話を重ねる時間が無限に流れる場ーーこの読書領域を守るのは誰?
私たち読者は、まず、読書領域で、自分の脳と心を育てたい。そのために、「新しい朗読」という再定義された朗読があります。
読書領域で、文学作品を豊かに享受する力を身につけた読者だから、上演領域において、他者に感動を与える表現者(語り芸:脚本を語る)にもなり得るのではないでしょうか。
「新しい朗読」が、読書領域のスタンダードな読書法となり、朗読といえば「新しい朗読」となる日は、案外近いのかもしれません。
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