新しい朗読ー文学作品の朗読を再定義する【4連載・1回目】
- 2025年12月8日
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更新日:1月14日

文学作品を深く味わうための読書法を、「新しい朗読」と名付けました。読書行為に音声を伴うので、黙読ではなく「朗読」。従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)ではないので、「新しい朗読」です。「朗読」の本質を、「体験を伴う読書行為」として捉え直したいと考えています。
第1章 文章と朗読には相性がある
私たちが読む文章には、大きく分けて二つの種類があります。
ひとつは、読者や聞き手に内容を届けるための「伝達の言葉」で綴られ、もうひとつは、読者や聞き手を虚構世界に誘うための「虚構世界を立ち上げる言葉」で綴られます。
どちらの言葉も、「言葉」であることに変わりはありませんが、その性質は大きく異なります。
そして、この違いは「どのような朗読がふさわしいか」という問題にも深く関わっています。
■ 伝達の言葉と従来の朗読
まず、「伝達の言葉」について考えてみましょう。
伝達の言葉は、相手に出来事やその雰囲気、思考などを届けることを目的とする言葉です。
相手が聞き手である場合には、届けたい内容が伝わりやすいように、抑揚をつけたり、間や声の強弱・スピードを調整したり、声と表現に創意工夫を凝らします。
このような「聞き手に届ける音声表現行為」を、これまでは朗読と呼んできました。この「従来の朗読」は、伝達の言葉と相性がよいのです。
■ 虚構世界を立ち上げる言葉とは
次に、「虚構世界を立ち上げる言葉」について考えます。一番に思い浮かぶのは、文学作品(詩や小説)の言葉ですね。
文学作品の語り手は、作者によって設定された唯一無二の存在。その語り手は、体験とともに生まれる言葉で、虚構世界を立ち上げます。
この言葉は、誰かに届けるために前もって整えられた言葉ではなく、語り手の「いま・ここ」での体験に伴って生まれている言葉です。
体験と一体になった言葉だからこそ、私たち読者は、言葉を手がかりに体験を推察し、「他者である語り手の体験を生きる」という稀有な体験ーーつまり、文学体験を得られるのです。
■ では、文学作品の朗読とは
ここまで見てきたように、「伝達の言葉」と「虚構世界を立ち上げる言葉」では、そもそも言葉の目的も、言葉が生成される状況も異なります。
「伝達の言葉」には、「聞き手へ届けるための音声表現行為」である「従来の朗読」が合うけれど、「文学作品の言葉(虚構世界を立ち上げる言葉)」にはどうなのでしょう?
文学作品の語り手は、現実世界の聞き手に向かって語っていません。それならば、私たち朗読者も、「聞き手に届ける」のとは違う姿勢で臨む必要があるはずです。
文学作品にふさわしい朗読とは何か。
声をどのように扱うのが適切なのか。
次の章で、その答えを探っていきましょう。
第2章 「新しい朗読」について考える
ここでは、文学作品にふさわしい朗読を「体験行為」として再定義します。
長いあいだ私たちは、朗読といえば「聞き手に声を届けるための表現行為」というイメージを持ってきました。
そのような「従来の朗読」は、「伝達の言葉」を扱うには、たしかにふさわしいのかもしれません。
けれど、第1章でみたように、文学作品(詩や小説)の言葉は、聞き手に届けるために整えられた言葉(アナウンス原稿や説明文など)とは異なります。虚構世界を生きる語り手から、体験に伴って生まれる言葉です。
では、文学作品にふさわしい「新しい朗読」とはいったいどのようなものなのでしょうか。
次に、その特徴を丁寧にみていきます。
■ 朗読の再定義:文学作品の朗読とは?
まず、「新しい朗読」を、次のように定義します。
新しい朗読:文学作品の語り手の体験を自らの身体と脳で試み、その過程で声が自然に生まれる読書行為
「従来の朗読」は、聞き手に届けるための表現行為でしたから、両者はずいぶん異なります。
「新しい朗読」は、声を美しく出すことや、表現を工夫することを視野に入れません。
目指すのは、語り手の体験に接近し、虚構世界を生きることなのです。
■ 「音声表現の朗読」と「文学作品の朗読」の違い
ここで改めて、従来の朗読(音声表現)と新しい朗読(文学作品の朗読)の違いを整理してみます。
● 従来の朗読:音声表現行為(「伝達の言葉」に対応)
① 聞き手を意識する
② 声を、出す:抑揚や間・緩急、発声の仕方を工夫する
③ 声の魅力や表現力が重視される
● 新しい朗読:体験行為(文学作品に対応)
④ できる限り聞き手を意識しない
⑤ 声は、出すのではなく出る:体験に伴って表出する
⑥ 声そのものではなく、声とともにある体験こそが大事
これまで「従来の朗読」に取り組んできた朗読者は、今後、「伝達の言葉」と「虚構世界を立ち上げる言葉」の性質の違いを考慮して、「言葉と取り組む態度」そのものを、大きく変える必要がありそうです。
■ 聞き手の問題ーー④ 聞き手を意識しない
「聞き手を意識しない」というと、聞き手に対して冷たいという印象を受けるかもしれません。独りよがりにならないのかと不安に思うかもしれません。
でもそれは、「従来の朗読(聞き手に向けた音声表現行為)」と混同しているだけなのです。
「新しい朗読」は、文学作品の語り手の体験を探して、見つかったら、自分の身体と脳を使って、その体験を試みるという体験行為です。
聞き手を意識した瞬間、その集中力は削がれ、体験から遠ざかってしまいます。
尚、ここで話している聞き手とは、一般的にイメージされるような単なる聞き手ではありません。文学作品に対応する「新しい朗読」は、聞き手を「語り手の体験に近づこうとする仲間」に限定します。
それはなぜかを説明します。
「新しい朗読」を、観客として聞いてしまうと、語り手が言葉で立ち上げようとする虚構世界ではなく、自分が立ち上げやすい虚構世界を歩くことになりがちです。それで文学作品をわかった気になってしまうのは、残念なことではないでしょうか。
文学作品の言葉は、音声で受け渡しするのに適していないのでしょう。読者一人ひとりが、自ら言葉と真摯に向き合い、時間をかけて語り手と対話を重ねるーーそうすることで、作品の豊かさを享受することができるのです。
(じつは、その結果よりも、試行錯誤の道のりこそが、豊かで、享受すべき悦びなのかもしれません)
■ 声の問題ーー⑤ 声は、出すのではなく出る
「従来の朗読」では、「どんな声で読もう?」「どんな表現がふさわしい?」と考えながら声をつくります。
しかし、「新しい朗読」では、その発想自体がありません。
語り手の体験を推察し、その体験を試みると、言葉が自然に生まれ、そのとき声はすでに出ています。
たとえば、いい湯加減のお風呂に入ると、「ああ、気持ちいい…」と自然に言葉が生まれます。そのとき声は出ていますよね。
これが「声を出すのではなく、声が出る」という感覚です。
■ 音声の役割ーー⑥ 声よりも、声とともにある体験こそが大事
「新しい朗読」で表出する音声は、聞き手に届けるためのものではありません。
音声は、目的ではなく、「体験」の副産物。語り手の体験に、より近づくための手段として機能します。
どういうことかを説明します。
語り手の追体験を試みる仲間は、(新しい朗読の)朗読者の声を通して、その体験に触れることができます。これは大切なことですが、自分自身で体験しているからこそ、触れることができるのです。
すると、双方の体験が響き合います。そのとき、新たな気づきーーそれはささやかだけれどとてつもなく大きい発見が、生まれることが多々あります。
「新しい朗読」で表出する声は、個々人の文学体験を開いたものにしてくれます。そして、より豊かなものにしてくれます。
■ まとめ:「新しい朗読」に必要なのは「姿勢の転換」
ここまでの内容をまとめます。
「新しい朗読」とは、声を届けようとする姿勢から離れ、語り手の体験を生きようとする姿勢で臨む「読書行為」である。
声の工夫をやめることは、最初は難しく感じるかもしれません。けれどもそれは、文学作品(詩や小説)の言葉にふさわしい「新しい朗読」へと、そっと身体を向け直すための第一歩なのです。
第3章では、この「新しい朗読」が、なぜ文学作品を享受するうえで欠かせないのかを、改めて考えていきます。
第3章 文学作品が差し出しているもの
文学作品(詩や小説)の言葉は、語り手が虚構世界を生きる語り手から、体験とともに生まれる言葉です。
では、そんな言葉と向き合うとき、私たち読者に何が求められるのでしょうか。そして、文学作品にふさわしい読書法として提示した「新しい朗読」は、私たちに何をもたらしてくれるのでしょうか。
■ 文学作品が読者に望んでいること
文学作品が私たちに差し出しているのは、単なる情報ではありません。
文学作品の語り手は、世界をどのように見ているのか、感じているのか、といった「語り手の体験そのもの」を差し出してくれています。
語り手の体験を、他人事として眺めるのではなく、自分自身の体験にすること。これこそが、私たち読者に求められているのです。
語り手の体験を自分ごとにできたとき、私たちの視野は広がり、他者への眼差しは以前より深くなっていることでしょう。
文学が本来持っている力は、まさにこの「世界を見る新しい眼をひらくこと」にあるのです。
■ 「従来の朗読」では何が難しいのか
しかし、「文学作品の言葉」を「伝達の言葉」のように扱う「従来の朗読」では、文学の持つ力を受け取りづらくなってしまいます。
なぜなら、「声をどう出すか」「どう伝えるか」という意識が先に立ち、「語り手の追体験を試みる」ことから遠ざかるからです。
声を工夫しようとした途端、虚構世界へと向かうための集中力は削がれて、意識は現実世界の観客の方へと引き戻されます。
その結果、語り手の微細な揺らぎのある体験に触れることは難しくなります。
場合によっては、「体験」と「言葉」のズレに気づかないまま表現行為を繰り返すことで、自分自身の感性を鈍らせたり、身体にダメージを与えてしまうことさえあるのかもしれません。
■ 「新しい朗読」がひらくもの
「新しい朗読」は、当たり前に存在する「語り手の体験と、いまの自分の体験のズレ」を時間をかけて丁寧に解消していく読書法です。
声は、語り手の追体験を試みたときに自然に生まれる副産物に過ぎず、目的ではありません。声や表現の工夫など手放して、語り手の生きる虚構世界に入っていきましょう。
そこには、ともに語り手を追いかける仲間がいて、体験を共有することができます。声を通して、仲間の体験に触れ、互いの世界が揺さぶられます。その先に、より豊かな世界が待っています。
「新しい朗読」は、文学作品をより深く味わうための手段です。また、個々人の文学体験をひらいたものにする手段でもあります。
■ 結びーー姿勢をやわらかくするために
「新しい朗読」をするとき、聞き手に届けようという姿勢に縛られる必要など微塵もありません。
声をどう出すかよりも、語り手の体験をどう生きるかを大切にしましょう。
たっぷりと時間をかけて、言葉と体験をつないでいくのです。そのとき、声は自然についてきています。
「新しい朗読」は、音声表現ではありません。自分自身を育てていく格別の読書行為です。
声は目的ではなく、体験に伴って生まれる表出にすぎないーーこのことを、何度でも、繰り返しお伝えしていきたいと思います。
声が先にあるのではなく、体験が先にある。
その順序を思い出すことから、私たち一人ひとりの「新しい朗読」は始まるのかもしれません。
次回は、文学作品より身近な「物語」の朗読について考えましょう。




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